日応(蒼玉院)
日応(蒼玉院)
にちおう
(一四三三-一五〇八)
蒼玉院と号す。
妙蓮寺再興本願主である仏性院日慶は、俗姓の高下によって参内の遅速あり、仏法の興廃は帝者の任なりと考え、日応を妙蓮寺再興の祖として八世貫首に迎えた。
日応は妙蓮寺の所伝(『妙蓮寺祖師記』『龍華秘書』)によると、伏見宮栄仁親王の子であるというが昇塚清研は「妙蓮寺日応の俗姓について」の研究で、伏見宮の出身でなく、庭田重有の子であることを究明した。
更に辻善之助はこの説を補訂して、日応の俗姓とその背景を明確にした。
『庭田家譜』によると、日応の祖父経有の妹資子は崇光院の宮女で、伏見宮栄仁親王の母である。
日応の父重有の妹幸子は後崇光院に仕え、後花園天皇および伏見宮貞常親王の母で、准三宮、敷政門院と号す。妹盈子は貞常親王の室で、邦高親王の母である。兄長賢の女朝子は、後土御門天皇の宮女で、後柏原天皇の母であり、准三宮、蒼玉門院と号し、永正元年(一五〇四)皇太后宮を贈られた。
このように庭田家と皇室との関係は非常に深く、また伏見宮家とも密接な関係であったが、日応が栄仁親王の子でないことは当時の記録によって明白である。
これによると、『親長卿記』文明六年(一四七四)五月九日の条に「妙蓮寺法花衆源大納言入道弟今日参仕」とあり、源大納言は即ち庭田長賢で、日応の兄に当る。
『晴富卿記』文明一一年七月二〇日の条に妙蓮寺僧正より親父の年忌に招かれたとあり、親父は即ち庭田重有で、重有は永享一二年(一四四〇)七月二〇日に薨じている。
『宣胤記』文明一三年三月二六日の条に「妙蓮寺に立ちよって、室町殿渡御の事を賀す。此住持は源大納言入道の弟なり」とある。
これによって日応が庭田重有の子であり、長賢の弟であることが一層確実となる。
日応が伏見宮家の出身であると誤伝されたのは、日応の生家が皇室および伏見宮家と姻戚関係であり特に関係が深かったことと、妙蓮寺の寺門経営発展の意味から、公卿の出というよりも皇族の方を門主に戴く方が、より権威があるとの考えからであったろう。
妙蓮寺日応のようすは『晴富卿記』に特に詳細に記録され、文明一一年二月二九日の条に「皇子勝仁親王(後の後柏原天皇)が伏見宮邦高親王、妙蓮寺に参詣せられ(略)談義御聴聞の後、勝仁親王の出題にて、和歌の会あり。また楽が催され、勝仁親王は笙、伏見宮は琵琶を奏せられた」と記し、妙蓮寺への皇族始め、公武搢紳、顕要の人々の往来が頻繁であった。
『宣胤卿記』『長興宿禰記』等にも記され、談義を聴聞し、あるいは歌会を催していたようである。
日応にとって、妙蓮寺の発展は勿論、教義の宣伝についても好都合であったといえる。
また日応は俗姓の背景から自然立身もし、僧正に任ぜられた。僧正任官の年は詳らかでないが、妙蓮寺記は、長享元年(一四八七)と伝える。
しかし『晴富卿記』文明一〇年(一四七八)三月二〇日の条に、僧正の名が初見される。『宣胤卿記』文明一三年二月二六日の条には、日応が先年僧正に任ぜられたが、然るべからざることで、従来の例よりいえば、山門の憤りを招き、棄捐されていることであると記している。日応は文明一〇年春か、文明九年の終りごろ僧正に任ぜられたと推定される。
日応は日慶示寂後の文明一五年二月一一日、義絶が続いていた妙蓮寺、本興寺の和睦を計り日存、日道、日隆を妙蓮寺の歴祖に加え、両山の永代人法互通を実現した。
明応五年(一四九六)妙蓮寺において本迹致劣の論争が起ると、翌年道輪学室に三ヵ条の掟を制定し、自門の者の他門の章疏を学ぶことを禁じ、他門徒の入門を拒否した。
日応は永正五年九月、七六歳をもって入寂した。
なお『法華宗年表』によると、日応は永正年中に備後地方に伝道教化したとされる。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、辻善之助『日本仏教史』中世篇四、昇塚清研「妙蓮寺日応の俗姓について」『歴史地理』五三―三、『日本仏教人名辞典』「日応」の項》