妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

成正寺(大阪府大阪市)

じょうしょうじ #2232

成正寺(大阪府大阪市)

じょうしょうじ

大阪市北区に所在し、読誦山と号す。開山は増長院日秀。慶長九年(一六〇四)三月現在地に開創。
本化別頭仏祖統紀』並びに『大阪寺院明細簿』(明治一一年=一八七八=大阪府庁提出書類の調査原本)によると、開山日秀は甲州巨摩郡の人、字を純志、身延山久遠寺一八世妙雲院日賢の高弟で、専ら京洛の地に伝道し、歌道に堪能であった。これが縁となって豊臣秀吉の知遇を受け、細川幽斎、里村紹巴らの歌人とも親交があった。
秀吉は日秀に伏見の墨染桜、貞観寺の旧跡を寄進し、墨染寺として再興せしめ、大坂満に定住の地を賜い、現在地に成正寺を創立した。秀吉が朝鮮出兵に際し持の妙見菩薩像(現存)を日秀に寄託し戦勝祈願せしめ、また戦旗に題目五字を書かせ諸将に授与した。また軍勢が堂宇を宿舎とし、堂前の松樹に軍旗を掛けたことにより旗掛松と呼ばれる松の木があった(数の大火により今は無し)。
秀吉の死後、秀頼が大坂城の主となったが、日秀は豊臣運長久を祈、元和七年(一六二一)一〇月一七日五六歳で入寂した。
因みに日秀の“秀”の字は、秀吉の“秀”の字が贈られたものと伝えられる。
代数を経るに従って寺観も整備せられたが、享保九年(一七二四)三月二一日、寛政四年(一七九二)五月一七日、保五年(一八三四)七月一一日等の大坂の大火で類焼したが、その都度檀信徒の外護により復興された。しかし今時大戦の空襲により昭和二〇年三月一三日、堂宇悉く焼失した。昭和三九年にようやく本堂が新築されたが未だ寺観は整っていない。
当寺は歴史で有名な大塩平八郎の、大坂大塩初代六兵衛成一よりの菩提寺である。大塩の先祖は、駿河今川の一族であったが、今川の滅亡後は徳川康に仕え、大塩波右衛門義勝と名乗った。尾張徳川創建の際、義勝は徳川義直の臣となり、名古屋白壁町に住した。これが大塩の本である。
菩提寺は身延末の大光寺である。
の義勝の末子大塩六兵衛成一が大坂に来て町与力となったのが、大坂大塩の初代であり、菩提寺を同じ身延末の成正寺とした。
には享保九年以後の新寂帳が現存し、この中には大塩一九名の法号が記載され、また現存する二冊の宗門改帳には大塩に関する記載があり、境内には大坂大塩初代六兵衛成一より格之助に至る九代の碑が現存している。それらの資料によれば、大塩系は初代大塩六兵衛成一、二代波右衛門、三代喜内、四代左兵衛、五代助左衛門、六代政之丞成余(中斎の祖父)、七代平八郎敬高(中斎の父)、八代平八郎後素中斎、九代格之助尚志(義養子)となり、代々大坂町与力の職にあったのである。
大塩平八郎中斎は、寛政五年正月二二日に生れ、一四歳にして与力見習として出仕し、二〇歳より与力の職につく。三八歳のとき辞職し、以後は専ら陽明学者として洗心洞に道をじた。保八年二月一九日、前年からの飢饉による市民の窮状を見かねて、無情の役人と不義の商人に対する覚醒運動に立ち上ったが、事成らずして靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に隠れていたが、遂に捕手に囲まれ、養子格之助と共に自刃した。時に保八年三月二七日、中斎四五歳。
格之助二五歳である。
以来今日に至るまで大塩中斎のこの一挙は、通じて「大塩の乱」と呼ばれ、正邪是非の評論もまた多く、逆賊暴挙、あるいは義挙等といわれている。
当寺では昭和二六年より大塩中斎先生顕彰会を結成し、毎年三月二七日の命日に義挙殉難者怨親平等慰霊法要を営み、記念演会を開催している。
また昭和五〇年に大塩件研究会が結成され、大塩研究が進められている。
なお中斎・格之助以後の直系子孫は、正史の上では絶となっているが、中斎の孫弓太郎が乳母に抱かれて大坂を逃れ、大垣の乳母の生にかくまわれ、後に日蓮宗の僧となり美濃関の永昌寺に住し、明治四三年八月二九日遷化したという伝承がある。
法号を観華院日祥上人という。
《宮崎英修「保の義人大塩平八郎」『日蓮宗の人びと』》

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