布教者の資格
布教者の資格
ふきょうしゃのしかく
神の啓示を受けたり、悟りを開いたということが、そのまま直線的に活発な布教活動につながるものではない。
啓示を受けたといっても人々に認められず葬り去られるという例もあるし、悟りを開いたといっても自分だけの主観に止まって、世を捨てて山林に隠れ住む者も少なくない。
布教という実践へ駆り立てるものがもう一つ加えられなければならない。
それは衆生救済の使命感である。
釈尊成道後の心境は端的にそれを物語っているし、大乗仏教では自行化他の菩薩道の実践が要請されている。
すべて宗教の布教の底では、どんな形をとるにせよ、この強い宗教的使命感がいきいきと働いている。
故に布教者の資格は、まず基本的にこの使命感をきつく把握するというところにある。
布教とは自らの信仰と異質なものに対し、それと対決し、それを批判する過程でもある。
自己の絶対性を確信しない宗教はない。
この確信が強ければ強いほど自己以外の信仰、あるいは無信仰への批判は鋭くなる。
だから布教活動の活発さは、必然に他の信仰の反発を招き、相互批判や、ときには物理的暴力を伴うことさえある。
わが日蓮教団の初期にあっては、平安仏教がなお力を保っている上に、念仏の声は全土を覆う勢いであった。
その中へ全く趣を異にした法華信仰を植えつけることは、実に容易ならざる難事業であった。
したがって既成の諸宗と対決し、その伝道の方法はすこぶる猛烈な破邪折伏であった。
よって、法難は布教者の身辺に次から次へと押し寄せてきた。
現代においても、布教者の信念の中には、かかる布教精神の横溢せるものがみられなければならない。
布教者の資格の基本的なものの第二に、この強盛な殉教精神が数えられる。
付随して布教者の健康、風采、知識、才能等々が必要となるが、更に現代の布教者には、社会科学や社会問題についての学習が要請される。
それでなければ現代人を真に説得、変容させる布教はできないからである。