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さ宮沢賢治

みやざわけんじ #1792

宮沢賢治

みやざわけんじ

(一八九六-一九三三)人。
明治二九年八月、岩手県稗貫郡(現在・花巻市豊沢町)の宮沢政次郎、同イチの長男として誕生した。
父は質・古着商を営んでいた。
盛岡中学校を経て二〇歳の、盛岡高等農林学校農学科に入学。
島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を読んで法華信仰を起す。
大正七年(一九一八)二三歳の信仰上の問題で父と対立する。
しかし彼の法華経に対する信仰は益々深まり、大正九年二五歳、日蓮主義を説く田中智学国柱会に入会し、法華信仰は不動のものとなっていった。
翌年父に法華経への帰依を進め、改宗を熱心に説いたが聞き入れられず、ついに上京して本郷に住み、筆耕の仕事で自活しつつ、智学の教えを受け国柱会布教活動に参加した。
またこの頃、すでに短歌や短篇の習作を数多く作り、文芸活動にも身を入れていた。
夏の終り頃、妹トシの発病により帰郷し、看病しながら郷土色豊かな童話を作る。
『注文の多い料店』『かしはばやしの夜』『どんぐりと山猫』など代表的な作品を次々に作っていった。
その年の暮に郡立の稗貫農学校(後に県立花巻農学校となる)の諭に就任した。
翌十一年には『心象スケッチ』と称する篇に取りかかり、有名な『春と修羅』の第一集を起稿する。
東北農民の生活を詠いつつ、その作品の底には法華経の精神が流れているもので、異色の「宗教人」といわれるようになっていった。
生徒のために「花巻農学校精神歌」(川村悟郎作曲)を書き、更に行進歌や応援歌をも作詞した。
十一月二七日、妹トシは看病も虚しくついに二五歳の若さで世を去った。
非常な悲しみにあって名作「永訣の朝」を始め「無声慟哭」「松の針」等の臨終篇を作った。
大正一二年『岩手毎日新聞』に童話を発表するかたわら生徒を監督して自作戯曲「植物医師」「饑餓陣営」を上演した。
夏休みを利用して北海道・樺太にまで足を伸ばし「オホーツク挽歌」「青森挽歌」など一連の挽歌を作り、妹トシの死を省察した。
翌年二九歳で『春と修羅』の第一集一千部を自費出版すると、『日本人』一二月号でこれが激賞された。
翌年、草野心平編集の『銅鑼』に作品を発表し、また関根太郎編集の『虚無思想研究』にもを載せて、同人誌を通じ人との交りが盛んとなっていった。
続いて昭和元年(一九二六)にはの同人雑誌数社に次々と作品を発表し、中央でも彼の人としての活躍が注目されるようになっていった。
賢治はこうした童話を通して、幻想的な世界を描き、独特の境を切り開いて、人としての地位を不動のものとしていった。
また一方では師を辞めて農民の向上を目ざし、新しい農民運動を展開していったのである。
法華経の精神に基づいた生き方をもとに農耕上の諸問題を取上げた『農民芸術論』を説いたり、実際に農村を巡回して肥料設計の指導をしたりして、農村の発展をねがい活躍した。
この年の暮に再び上京し神田錦町に下宿してエスペラントやオルガン等を修得しながら図書館での調査をして回ったという。
昭和三年伊豆大島に旅行し「三原三部」をえる。
六月下句帰郷し、稲作の不良を憂いて東奔西走し、農民と共に対策をねったが、過労がもとで病床に伏すこととなった。
肋膜炎を起し翌四年療養に努める。
病床にありながらも常に作を続け、また法華信仰を怠らず、日蓮聖人の「本化の菩薩」として生きた「不惜身命」の在り方に深く感化されていった。
昭和五年病状の回復するのをまって再び文筆に農民運動にと活躍を再開していった。
翌六年炭酸石灰の製法改良に成功し、岩手・秋田・宮城・東京と各地を巡回して普及に努めた。
『児童文学』創刊号に童話を送り発刊に協力した。
草野心平は『神』に「宮沢賢治論」を発表。
この年の九月上京したが再び発病し高熱に苦しむ。
帰郷して代表作「雨ニモマケズ」ができた。
このは法華経の菩薩道を詠ったものとして世に高く評価されている。
かくして昭和八年九月二一日、訳法華経の刷と知人への配布を願いつつ三八歳をもって世に惜しまれながら没した。
彼自身「雨ニモマケズ」の「デクノボウ」を志した生き方を願ったのであり、崇高な法華経人としてわが壇に永くその名を留めるべき人物である。
現在、身延山に「塵点のをし過ぎていましこの 妙のみ法にあいまつりしを」という遺稿が碑に彫まれて建っている。
賢治のは花巻市の身照寺に在る。
《『現代日本文学大系』二七巻、堀尾青史『年譜宮沢賢治伝』、上田本昌「文学・芸能に現れた日蓮聖人」『近代日本の法華教』、上杉清文・末木文美士『現代世界と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』五)、『史大辞典』一三巻「宮沢賢治」の項》

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