妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

三山一主の制

さんざんいっしゅのせい #160

三山一主の制

さんざんいっしゅのせい

三山とは鎌倉比企谷の妙本寺と、池上本門寺、身延山久遠寺の三寺のこと。 この三寺の住職を一人で兼ねたことをいう。
ち、六老僧の一人である日朗は比企谷に妙本寺を建て、関東に法華信仰を弘通する原動力となったが、弘安五年(一二八二)日蓮聖人が池上において入滅されたのち、池上宗仲がその館を改め、長栄山本門寺を創建するに及び、日朗はこの寺を兼ねて住職となった。 ここに妙本寺と本門寺の両山一主の制が始まる。 日朗は平素比企谷に常住しつつ池上を兼務した。
文保元年(一三一七)に宗長の宅地へ本門寺を移し、堂宇を拡張して、妙本寺は弟子の日輪に守らしめた。
のちに応安六年(一三七三)、身延山七世に上行院日叡が晋山し大いに勢力を振った。
その頃、比企谷と池上の両山には大鷲阿闍梨日山が四世として布教に専念していたが、永徳元年(一三八一)九月七日遷化した。 両山では一に主を失い悲嘆にくれたが、両山の大衆が協議して同年身延に到り、日叡を迎えるべく懇請した。 日叡は、「我身延に主たり、又比企・池上を兼職する可ならん乎」と執事や諸僧と相談の結果兼職することを受諾し、両山の五世となることになった。 ここに初めて身延・比企谷・池上の「三山一主」の制が起った。
日親の『伝燈抄』によると「明徳の頃」に三寺兼職となっているが、これは「永徳」の誤写であるといわれている。
また『身延山史』によると、日叡が両山の招待に応じたのは日山との交友があったためであり、その後池上の末寺である宇都宮の妙勝寺(現・妙正寺)が席となったのでこれも兼ね、遂に「四山一主」の制を現ずるに至った。
日叡の出生については詳かではないが、波木井に関係のある出生であろうといわれている。
のちに応永六年(一三九九)、行学院日億が日叡の後を継いで八世となった。
三山一主の制に従って両山を兼務したが、信徒の中には「身延あるを知って、両山あるを知らず」という弊害が生じたので、両山の執事が日億に兼職の制を廃止してほしいと願い出たため、日億もその意を諒とし、法弟の延命院日行に比企谷代官として派遣を命じ、ここに三山一主の制は廃止されたのである。
《『身延山史』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮団全史』上》

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