天目(日盛)
天目(日盛)
てんもく
(一二四五-一三三七一)
諱は天目、名は日盛(『別頭統紀』・『年譜攷異』)、卿公、または美濃阿闍梨と称し、上法房(『円極実義抄』)または浄法房(『門徒存知事』)と号す。
豆州(伊豆)波多野の人、母は駿州(静岡県)熱原甚四郎国重の娘。
国重日蓮聖人に帰依し信心篤く、日蓮聖人六〇歳の砌、その祝に駿州賀嶋に蓮寿山常諦寺を造立し、その次子日忍、孫天目を聖人の門に入らしめたとある(『本化別頭仏祖統紀』)。
天目、聖人入寂後、他の御弟子と共に遺教の弘通に努めた。
初め鎌倉畠中円成寺に在って本迹勝劣の義を唱え、正安元年(一二九九)日向に説破され、寺を法姪日実に託したと伝う。『向目問答記』がこれである。
また日弁の『円極実義抄』によれば永仁五年(一二九七)三月一七日、池上宗仲を仲介とした老僧たちに祖書結集の義を進言している。
この献策は老僧たちに取上げられなかったようで、正安二年(一三○○)本迹勝劣義について六老を難じ迹門不読の説を主張し、宗内に悪名を流したという。
日弁もまた天目の勝劣義に与同し大いに法陣をはった。
後に、この流れを天目門徒といい、また、日弁の開山である千葉県鷲巣の鷲山寺がその法陣の拠点となったことから鷲巣門徒とも呼ばれるようになった。
その後、若田辺光益の外護により下野国(栃木県)佐野に妙顕寺、武蔵国(東京都)品川に妙国寺、常陸国(茨城県)小勝に本門寺を創立し、延元二年(一三三七)四月二六日、九一歳をもって本門寺に入寂したという。
一説に延慶元年(一三〇八)ともあり、妙顕寺の過去帳、墓銘より見れば、延慶元年とあり、この年を正しい説とみるべきであろうか。
日弁と天目について先師の間で同一人物とする説もあった。
著書に『円極実義抄』『本迹問答七重義』がある。
『実義抄』の巻末に「本門寺沙門天目集記」とあり、鎌倉円成寺以後の作であり、向目問答の結集が世伝(『本化別頭仏祖統紀』等)の如く天目の帰伏までには進まなかったと見るべきであろう。
天目の教学を知るものとしては、『円極実義抄』(『宗全』第一巻)『本迹問答七重義』(『宗全』第一巻)また日全の『法華問答正義抄』(立正大学図書館)によって知られる。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、『宗全』第一巻・第二巻、執行海秀『日蓮宗教学史』》