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住本寺(廃寺・山城国葛野郡二条堀河)

じゅうほんじ #589

住本寺(廃寺・山城国葛野郡二条堀河)

じゅうほんじ

京都二条堀河(堀川)にあった京都二十一箇本山の一つ。
天文法難で破却せられたが、のち上行院と合併して一寺となり要法寺と称して復興した。
日興、日目の弟子日尊は、京都六角油小路に上行院を建てて京都における富士門流の基盤を確立し、康永三年(一三四四)に日に譲った。 日と同門の日大は上行院を継承できなかったことを不満としたらしく、一条猪熊に上行院を創してここを本拠とした。 一条猪熊上行院は日大の弟子日源によって本実成寺と改められ、更に二条堀河に移って住本寺と称した。 これより日尊の門流は上行院・住本寺の両山併立の形で約二〇〇年を経過していく。
本寺開山日大は延慶二年(一三〇九)の生れで生、俗姓は不詳。 本覚と称し、上行院また畠山阿闍梨と号した。 師日尊の意志を継いで山陰道に・線を伸ばし、出雲に一〇余ヵ寺を開創し大いに門の勢威を伸ばしたので、後人は日大をもって山方開山と称した。 勝れた学匠で、貞治二年(一三六三)五五歳の山門無双の学僧といわれた山門惣探提直兼と台当の立義について問答し『日大直兼台当問答記』を残した。 応安二年(一三六九)二月一二日、六一歳で遷化。
日大の『即身成仏』の奥書によれば、「貞和二年(一三四六)九月二十九日京都冷泉西洞院法華道場において記録す」とあり、この頃、即ち同門の日が上行院を継いだ前後には既に法華道場を建て、これによって活躍していたと見られる。 また貞和年中には、一条猪熊に上行院ち後の住本寺を本拠とした。
前述のように、日大は六角上行院を譲られなかったことを不満としたらしい。 自身建立の一条猪熊等の法華堂を上行院と号しているのは、それは自分をもって上行院の正嫡であると任じたからではないかと考えられる。
また日親の『伝燈鈔』は、日尹(印)の時、日大が寿量品の心懐恋慕、咸皆懐恋慕の懐の字の読法につき「エ」「クワイ」の諍いをして上行院と門徒を引分け、日尊門下は二流になったことを伝えて、上行院は「エ」門徒、住本寺は「クワイ」門徒と呼んだという。
いずれにせよ、日大は六角上行院の後継者に対し好意を懐かず門を分つに至ったのであろう。

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