上行院(廃寺・山城国葛野郡六角油小路)
上行院(廃寺・山城国葛野郡六角油小路)
じょうぎょういん
京都二十一箇本山の一つで六角油小路にあった。
天文法難の際破却せられたが、天文一九年(一五五〇)綾小路堀河の地に住本寺と合して一宇を建立し要法寺と称して復興された。
開山日尊は奥州登米郡玉野に生れ、初め天台を学んだが、弘安六年(一二八三)一九歳の時日目の弟子となり、更に日興に直参して行学に励んだ。
日興の不興をかって勘当されたが大いに発奮し、北は生地玉野を根拠として日目化導のあとを受けて教化を布き、西は安芸・出雲に至る間を往返遊化して弘教に努めた。
勘当の期間は一二年といい、応長元年(一三一一)に赦免されたと伝え、その後さらに教線を伸ばしたが、日興寂後、その遺志を奉じた日目に随い、日郷と共に天奏上洛の任についた。
時に日目七四歳、日尊六九歳、日郷四一歳であった。
不幸にも日目は中途にして病を得、後事を日尊にゆだねて没した。
日尊は日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰ったが日尊は関西方面の教化に当った。
当時京都にあっては、日像の妙顕寺が公武庶民の間に大いに勢力を仲し、天目門徒もまた二条西洞院青柳に本門寺を建て、ここにより中山・身延門徒も所縁をたのんで活躍していた。
ために日尊もまた京都に本拠を定めるべく、暦応元年(一三三八)再び入洛、自身が諸国に弘通した勢力を結集して翌二年六角油小路に上行院を建て、富士門流の京都進出の基盤としたのである。
老齢に及んでいた日尊はここに住し、子弟檀越の教化に努めた。
康永三年(一三四四)の譲状によれば、目尊には日印・日慧・日大・日堯・日禅・日従の六人の高足があったが日印・日大以外の四人については詳らかではない。
日尊はこの年の六月八日、日印に上行院を付嘱し、翌貞和元年(一三四五)五月八日八一歳をもって寂した。
上行院を継いだ日印はのち日尹、宰相阿闍梨、律師に任じ、当時会津実成寺に住していたようであるが、日尊の招きによって上洛し付嘱をうけた。
一方日大は、六角上行院とは別に京都一条猪熊に上行院を建てて弘通している。
のちの住本寺である。
日大は六角上行院を継承しなかったことを不満としたらしく、やがて門家を分つに至った。