馬鳴
馬鳴
めみょう
Aśvaghoṣa 二世紀頃、中インドの人。
鳩摩羅什訳『馬鳴菩薩伝』によれば、馬鳴は初め外道の出家修行者であった。
論議にすぐれ、中インドの仏教沙門の中で彼と論議できるものはなかったが、北インドから来た長老脇比丘と論議してこれに伏し、脇比丘の弟子となった。
具足戒を受け、博く衆経に通じ、弁才に優れ天下に向うものなく、人々はみな敬伏し、国王の珍遇をうけた。
後に北インドの小月氏国王(クシャーナ王朝のカニシュカ王、二世紀前半)が中インドを討ち、賠償の一部として馬鳴を要求し、北インドに迎えた。
内外の沙門・異学を集めて馬鳴に法を説かせたところ、聴く者開悟せざるなく、飢えた馬ですら与えられた草をもはまず、涙を垂れて説法に聴き入り、その音を解したので、馬鳴菩薩と称せられたという。
真諦訳『婆藪槃豆法師伝』によれば、馬鳴は舎衛国婆枳多土の人といい、仏入滅後五〇〇年中に、迦旃延子に請われて罽賓に行き、『毘婆沙論』の作成に参画したという。
また『付法蔵因縁伝』巻第五では、馬鳴は脇の弟子富那奢によって教化せられたという。
志磐の『仏祖統紀』巻第五「西土二十四祖紀」は『付法蔵因縁伝』を収録しているが、二十四祖のうち末田地尊者を「阿難旁出」として番号を与えず、「九祖脇比丘尊者、十祖富那夜奢尊者、十一祖馬鳴尊者」と記している。
仏入滅後の年代については異説があり、『摩訶摩耶経』巻下には馬鳴を「六百歳已」、龍樹を「七百歳已」の比丘とする説がある。
馬鳴はBuddhacarita(『仏所行讃』)、Saundarananda(松濤誠廉訳「端正なる難陀」)の作者として名高い。
その他『大荘厳論経』『大乗起信論』など多くの著作が馬鳴に帰せられているが、異論が多く、特に『大乗起信論』の著者は龍樹以後の人物で『仏所行讃』を著した馬鳴とは別人である。
日蓮聖人は馬鳴を付法蔵の一人にして、正法の後の五〇〇年に権大乗経を弘めた菩薩と見られた(『開目抄』定五九三頁)。
《宇井伯壽『印度哲学史』、金倉圓照『馬鳴の研究』、山田龍城『梵語仏典の緒文献』、松濤誠廉『仏教における信と行』、野村耀昌・大川富士夫訳「付法蔵因縁伝」『国一』和漢撰述部九七「護教部」四上、平川彰『インド仏教史』上巻、同『インド中国日本仏教通史』、『遺文辞典』歴史篇「馬鳴」の項、『岩波仏教辞典』「馬鳴」の項》