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身延炎上

みのぶえんじょう #4892

身延炎上

みのぶえんじょう

第十一代行学日朝が西谷から現在地に、新たに諸堂を移したのは、日蓮聖人開山より二〇二年目の文明七年(一四七五)であった。
以来山勢伸展して第三一世日脱の代、貞享年中(一六八四-八八)には、常家安泰を祈願する祈祷坊三六ヵ坊の創設あり、また帰依の諸侯寄進の堂塔も多数建立された。
第三三世遠沽日亨代、正徳二年(一七一二)の記録には山内支院総数一三三の多きに達したとある。
しかし徳川末期より明治にかけて、不幸にも々火魔に襲われた、ち文政四年(一八二一)、同七年、一二年、慶応元年(一八六五)、明治八年(一八七五)、二〇年と山内各所に出火した。
特に明治八年の大火は被害甚大であった。
一月一〇日午後六、今の西谷本行下の本種より出火したが、これについて住職日薩が三村日修宛の書翰に次の様に報じている。
「延山大風猛烈火焔天を焦し一山一宇不残回禄なり、残処は宝蔵三つのみ、実驚愕何とも申方無之、畢竟野生不徳故諸天の厳責相蒙候と且は慚、且は奮起仕候乍然祖師の威徳不墜地翌日より内の人民連日二十ヶ村三十ヶ村二千人二千五六百人位手弁当にて灰の片付に参り唱題の声山に満つ。
此等の人手にて来候者一人も無之縄或は草筵金銭米穀味噌沢庵野菜等持参中には背に赤子を相負たる婦人も多々の由なり」(『新居日薩』二四三頁下略)かくて本山諸堂七五棟、寺中一二ヵ五八棟、町三戸十一棟総計一四四棟が焼失したのであった。
身延山火災中最大の被害を受けた。
什宝と共に『開目抄』『種種御振舞御書』『佐渡始顕の大曼陀羅』その他多数の御書並びに四条氏外に遺わされた御消息類を失った。
平素宝蔵中に格護中のものがたまたま何かの都合で御真骨堂中に在って焼失してしまったと古老は伝えている。
なお御真骨は院代日鑑一老等奉持して東谷覚林房に待避した。
管長として在京中の日薩も急遽帰山し、寺中を厳しく飭(かいちよく)した。
日鑑は山内僧侶を問責することなく「木造の焼失はに詮方無きことである、只だ汝等が今後最も意を用ふべきことは、一同奮励一番して層一層の美観を為すことにある。
故に大いに努力して貰いたい」と激励した。
明治九年八月日薩退隠して日鑑は一二月第七四世の法燈を嗣ぎ、砕身致力一〇ヵ年よく諸堂伽藍の再興を計り、輪奐の美を復せしむるに至った。
同一四年日蓮聖人第六〇〇遠忌が営まれたことも復興を速やかならしめた要因であった。

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