妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

清澄寺改宗

せいちょうじかいしゅう #3997

清澄寺改宗

せいちょうじかいしゅう

昭和二四年(一九四九)二月一六日、日蓮聖人得度開宗の霊跡(千葉県鴨川市清澄)。千光山清澄寺は真言宗智山派を離脱して日蓮宗に改宗した。
聖人勉学当時の同寺は天台宗であったが徳川家康の末年仲恩房頼勢以来法脈を真言宗と定め、朱五〇〇石格式一〇万石を付与され、題目の法皷は一歩も境内に入るを許されぬまま近年に至った。
大正九年(一九二〇)玉瀧義秀清澄寺三〇世の法灯を継ぐや「日蓮聖人は教界の大偉人、宗派のいかんを問はず尊崇すべき聖者」として寺門を開放し、特に四月二七、二八日の立教開宗会には全山を日蓮宗に開放する大量を示した。
この全山の開放が日蓮宗管長河合日辰を感奮せしめ各大本山貫首、東郷元帥、徳川家達ら朝野諸名士の協力により旭森に日蓮聖人の大銅像が建立され、宗門と清澄寺との宿縁が俄に開花し、日蓮宗清澄寺駐在布教師の常駐(初代土橋観英、二代池内顕海、三代片桐海石)が制度化されて清澄寺の繁栄に役立つことになった。
だが第二次世界大戦が始まり所有山林は供木、田畑は開放、一山の経営が危殆に頻したばかりでなく、玉瀧義秀も遷化する中で昭和二三年一月法弟岩村義運が三一世を継承した。
寺の経営困難を憂慮した清澄寺檀徒の中堅層のある者はその打開策を真剣に協議しており、その唯一の途が郷土の偉人日蓮聖人を晴れて清澄寺に迎えること、即ち「改宗」すること以外にないことを教えられて俄に開眼し、深く心に決するところあって岩村住職に胸中を披瀝し、住職また先師玉瀧義秀の遺志を継いで百難に当る決意を述べて肝胆相照らし、終いに幾多の曲折を経て改宗の大を成就した。
末寺四五ヵ寺はそのままの本山単身の改宗であったが、六〇戸の檀は悉く寺と共に改宗した。
改宗に際して日蓮宗清澄寺側に対し、その要望項を「覚書」として取交したが、その要旨は次の如きものである。
(一)清澄寺の寺格を大本山とすること。
(二)清澄寺の歴史を尊重し本尊(虚空像菩薩)及び本堂宗宝として存置格護すること。
(三)祖師堂宿坊その他山内諸施設を整備すること。
(四)住職に対する体面保持、特殊な寺檀関係の承認、等々である。
日蓮宗第三五代管長深見日圓は岩村義運に感状を贈り、日蓮宗清澄寺第一世に推した。
改宗を記念する大式典は昭和二四年四月二八日清澄寺において管長大導師のもと奉行されたが、六キロの山道は参拝者の列で切れ目なく続き、その高唱する題目の声は全山に木魂する盛況であった。
勿論宗史を飾るこの大の陰には複雑な難問も山積し、自ら縁を作り身を挺して艱難に堪えた幾多の人々がいたことを忘れてはならない。
改宗の日が日蓮聖人生誕の聖日であったことも奇しき因縁といえよう。
改宗に際し宗門が約束した前記「覚書」の内容も今は既に大体履行出来たことを併せて付記する。

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