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江川氏

えがわし #3727

江川氏

えがわし

江川氏の祖は、清和皇第六皇子貞純親王の子、正四位下源経基の長子鎮守府将軍左馬権頭の次子、正四位下大和守頼親に始まる。
永承五年(一〇五〇)奈良興福寺の訴を被り、大和(奈良県)宇野に流された。 以来この地に住して代々宇野姓を名乗っていたが、九代親信のとき(鎌倉時代)、一族郎党と共に伊豆八牧郷江川(静岡県伊豆の市韮山)に移住した。
一〇代治信は治承四年(一一八〇)八月源頼朝の挙兵に応じ、八牧の合戦に功があった。 これにより江川の領地を賜わったという。 一一代行治以下鎌倉幕府に仕えた。
一六代英親(英久)のとき日蓮聖人と親交があったと伝えられている。 『豆州志稿』によれば、弘長年(一二六一-六三)聖人は伊豆にあって英久より度々の供養を受けた。 その頃英久はの修復工にとりかかり、日蓮聖人自筆による火除の棟札を受けた。
また『本化別頭仏祖統紀』には「江川氏太郎左衛門吉久ハ泉州ノ人也。 (略)吉久豆州ニ来テヲ興。 高祖ニ帰シテ弟子ノ礼ヲ執リ高祖法諱日久ヲ授」更に『年譜攷異』には「太郎右衛門ト称ス。 (略)弘長中大士ニ依テ受ス。 弘安二年本尊及ビ法号ヲ賜。 日久ト号ス。 ニ又梁牌(むなふだ)本尊ヲ蔵ス」とあって優婆塞日久と号し、棟礼を授かったとある。 この棟札について三四代英征のとき、江戸俳壇の雄といわれた蓼太が江川の客となった。 このの『連句集』に「公にも照覧給ふ日蓮上人棟札、其時の家居、弘長の昔より今なお池魚の災にかからず、風破なへのわづらひなく、今年五百有余年」とあり「棟札も久しき代々や夏木立」と詠じている。
現在の屋は修復は々されたが八〇〇年前のものだといわれている。 その母屋の一本のは、自生していた古椎をそのまま四角に削ったもので江川の生きとよばれている。 今日まで火災に遭わず現存できたのは、ひとえに火除棟札の御利益とされ、明暦の大火(一六五七)江戸城炎上のときには、火除棟木一本を献上して江戸城再建に使用したといわれている。 建物は韮山代官屋敷として有名。
なお韮山本立寺は、久盛(二六代英盛のことか)が円明院日澄に帰依して建てたものである。
日蓮聖人が弘安二年一一月に「優婆塞日久」(江川吉久)へ授与された曼荼羅本尊は長く江川に護持伝来した。しかし、明治の初めに他処へ移り、展転して今に存する。
《『御本尊集目録』七〇号、宮崎英修「江川家と江川坦庵」『続・日蓮宗の人びと』

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