妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日饒(平賀本土寺)

にちにょう #3206

日饒(平賀本土寺)

にちにょう

(一三五八-一四二八)
平賀本土寺六世、字は慧海。
下総風早庄千駄堀の生まれ、俗姓は明石氏。
同地の鼻和に住した大僧都能海について出家得度した。
次いで台の檀林、川越の仙波喜多院に学んで詔海の補弟となり、二位僧都に叙せられ、一の俊英とうたわれた。
四〇歳のとき、宿習開発して本土寺五世日願に帰伏、その弟子となり日饒と名を改める。
その後身延・池上・比企三寺の学頭に任ぜられて一寺ごと二-三年の説法を勤した。
一説では、両山四世日山と法論し、その法力に屈して改宗帰伏したとするが、日山の没年が永徳元年(一三八一)で、ときに日饒は仙波勉学中、年齢は二四歳。
前述の通り改宗したのが応永四年(一三九七)、四〇歳のときであるから、どうも矛盾が多い。
おそらく日山が、武蔵荏原郡蒲田郷(東京都大田区)を領する江戸氏一族の土豪、蒲田氏を教化して池上本門寺の檀越にしたことと、この蒲田氏が日饒を開山に招き、同地の天台宗妙田(典)寺を改宗させた実とを混同して誤解したものであろう。
日饒と両山との関係は、三寺の学頭となった事情から考えて、日山の次に両山の猊座についた身延七世日叡によるものと思われる。
直接の師範は本土寺日願であったが、身延・池上・比企三寺兼帯の貫首となった日叡のもとで、実質的な化活動をしたらしい。
蒲田道儀(ー一四一〇)が日饒を招いて妙典寺を改宗させた期は明らかではないが、池上で説法していたときに帰依したに違いない。蒲田氏がのちに平賀と密接な信仰関係を結ぶのもそのためであろう。
日饒はここに学室を開き能化となった。
応永一八年に師範遷化のあとを継承して平賀に住し、在山一八年、正長元年九月六日に七一歳で没した。
妙典寺のほか今津の本成寺を開き、平賀の御影像を造立したことも知られる。
《『本化別頭仏祖統紀』、『当門徒継図次第』、『平賀本土寺継図次第』、『新編武蔵風土記稿』、『本土寺過去帳』、宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日饒」の項

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