妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日遵(長遠院)

にちじゅん #3141

日遵(長遠院)

にちじゅん

(一五九二-一六五四)
字は了遠、長遠院と号す。
豊前小倉の生まれ、幼くして出家し、長じて関東に赴き飯高、中村、松崎檀林に学び長遠院日樹に師事し学徳を称せられたが、間もなく京都頂妙寺に請ぜられ、また松ヶ崎檀林能化に迎えられ学徒を養育した。
寛永七年(一六三〇)、身池対論は頂妙寺にあり、『不受決』を著し当の名匠たちから賞賛されている。
さて身池対論の幕府の採決に対し小湊誕生寺一五世日税は宗義の絶滅を憤って自刃し、一四世日領は流、一六世日延も追放の身となったが日遵は日延のあとをうけて一七世を継承した。
日遵は中村檀林が受派身延の支配に入ったのを不受派に取り返さんとして種々に働きかけたがならず、師日樹の勧めもあって新檀林建立を企て、井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を得、寛永一四年閏三月二四日、中村の近くの玉造に蓮華寺を再興しここに学室を建立した。玉造檀林がこれで不受派学徒養成根幹道場となった。
また徳川光の息女千代姫の外護をうけ誕生寺に七〇石の寺領を賜い、次いで江戸青山自証寺二世に晋んだ。
自証寺は千代姫の母お振、法号自証院殿菩提のために建てられ松寿院日須を開山とする。
このころ日蓮宗から脱宗し天台宗となった真迢は『破邪顕正記』五巻を著し宗祖ならびに門罵し曲筆謗言を加えた。
宗門の諸師は激発しそれぞれ破書をつくったが、日遵は慶安三年(一六五〇)『諫迷論』一〇巻をもって真迢の所論を破摧し宗義を宣揚した。
のち真迢は弟子真陽の名をもって『禁断日蓮義』一〇巻を著し諸師の説を弁駁したが、その反論の主とする所は『諫迷論』にあるのを見てもいかに痛撃を蒙ったかが知られよう。
日遵はかくのごとく不受派の頭領たるのみならず学面においても日蓮宗の重鎮として諸宗のに名声をはせている。
日遵には上記の著の他に『校訂法華経』八巻がある。
承応三年九月三日、六三歳をもって入寂した。
なお大阪松宝寺開山であり、頂妙寺は除歴されている。
小湊の歴代については日領は自筆の譲状(身延山蔵)に小湊一四世と記しているから日税ないし日遵の歴数を一五世ないし一七世とする。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修「舜統院真迢の研究」『波木井南部氏事蹟考』、『日本仏人名辞典』「日遵」の項》

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