妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日通(功徳院)

にっつう #3111

日通(功徳院)

にっつう

(一五五一-一六〇八)
功徳院と号す。
文二〇年堺の油屋常金の子として生まれた。
心院日珖に師し、京都本法寺第一〇世。
著書に『盤究境録』二巻がある。
天文法難のあと安土法難の追い打ちを受けた日蓮宗は、文禄四年(一五九五)秀吉の発願により同年九月より毎月にわたり先祖並に亡父母追善のため、大仏殿に八宗の僧を集めて諷経する大仏供養会に出仕すべく招待された。これは日蓮宗が国主供養免除の折紙を得てからわずかに六年目のことであり、宗内は大仏供養会への出、不出を論じて騒然となり、両者の主張は京都諸寺を二分してしまった。出仕すべきであるとするものは仏心院日珖を始めとする諸長老で、京都の政情に対処するために宗制を現況に即応させようとする摂受的な関西学派の諸師であり、不出仕を主張して不受の制法を堅持しようとするのが関東系学を奉じる諸師であった。
この頃の日珖の動向は、中山の管理、補佐の任にあった四院家(浄光院・本行院・法宣院・安世院)の不始末を家康に訴えて放逐し、上方の妙国寺・頂妙寺・本法寺による三山輪番制を布いて日珖自身中山に住し、文禄三年六七歳をもって入寂。
この三山は従来中山に対して何らの権限はなく、当然中山所属の諸寺の反発は熾烈で、日珖は関東進出に多大な労を要したといえる。
この様な状態の中で、日珖の弟子功徳院日通は本満寺日重、頂妙寺日暁、妙寺日統等の長老と日珖不在の京都団の指導に大きな役割を果した。
日通は正一六年(一五八八)三六歳にして本法寺に入り、二年後に同寺を京都一条堀川より寺ノ内小川通りの現地に移し、本堂客殿はじめ諸堂は本阿弥一等の寄進によって成就し同山中興と仰がれている。
長谷川等伯は桃山時代の代表的画家、長谷川派の祖「雪舟五代」を称したが、深く日通に帰依して二王門の施主となり釈尊涅槃図、日通及びその母の像を画き、更に日通に画法の秘旨「画三説」を語り、その筆録『等伯画説』をのこした。
中山法華経寺第一四世。日通は中山入院中、蔵中の宗祖真蹟を模写、京都本法寺に存する。 《『日本仏人名辞典』「日通」の項》

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