妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日澄(大乗阿闍梨)

にっちょう #2809

日澄(大乗阿闍梨)

にっちょう

(一二三九-一三二六)
朗門九鳳の一人、本乗と号す。
大乗阿闍梨とよばれ、僧都に叙せられる。
相州小田原(神奈川県小田原市)の人で俗姓は平姓の浜名氏、豊後守成の子という。
仁治二年(一二四一)に三歳で父母を喪い、祖母妙珍に撫育されたが、戦の乱世に祖母も没したので、郷里の山寺に入り薙髪する。
次いで叡山に学び、ここで日蓮聖人の学風を聞いて感動し、弘長二年(一二六二)の春、鎌倉松葉谷の庵室を訪れた。
聖人が伊東流罪中であったため対面できず、日昭にえを乞うた。日昭は弟子をとらない主義であったが、来意を聞いて憐愍の心を起し、懇切に指南したと伝えられる。
のち日朗の筵に列座し、その学徳崇行に感じて弟子の礼をとった。
ときに日朗一八歳、日澄二二歳という。
弘長三年に聖人が伊東流罪を赦免されて安房に帰郷、老母を訪ねた。
このとき日朗と共に随行し、小松原の法難で傷を負った聖人を介抱した。
聖人はこの法難で殉死した工藤吉隆の父行光のすすめで、傷をいやすため津の真言寺に滞留した。
このとき、この寺の住持と日澄が宗論となり、遂に住持は屈伏、改宗して寺を明星山日澄寺と改めたという(文永元年一一月一三日のこととする)。
しかし日澄はこの寺の開山に法難で殉死した工藤吉隆(妙隆院日玉)を迎えて、自らは二世となった。
比企谷の近所に真言宗正覚院がありここの住持は聖人と宗論することを望んでいた。
文永一一年(一二七四)に聖人は日澄に命じてこれと法論させ、遂に勝ちを得て長慶山大巧寺と改めたと伝えられる。
聖人身延入山後は常に比企谷にあって日朗に随従し、また池上に往って終始日朗と一如のごとく行動をともにしたという。
池上宗仲はこの給仕の姿に強くうたれ、聖人の滅後に邸地をさいて一宇を建立し、ここに止住させた。これが池上大本行寺の濫觴である。
日澄は勲功の僧であり、その休息の地、開闢の寺であるから、本門寺の子院とはせず大と尊称するともいわれる。
また八一歳の高齢に達した日澄は、元享元年(一三二一)に父母の冥福を祈って故地小田原に一宇を建立、妙珍山蓮昌寺と称し、自らその開山となった。
この年尾張に遊化し、熱田神宮に詣でた。この社には桓武天皇の勅命で建てた法華堂があり、建長五年(一二五三)、聖人は京畿遊学を終えて郷里に帰る途中この堂にたち寄ったと伝えられる。
聖人が入滅してのち四〇年を過ぎたこの時、晩年の日澄がこの堂の前に立った。おそらく夢のような心地がして感涙がこみあげたことであろう。この堂に滞留して一心に唱題読誦する日澄の姿をみて、宮司は、その高徳を深く感じ、また聖人との縁由を知って安置する釈尊像と共にこの堂を日澄に献じた。これが妙光山本遠寺開創の由来である。
嘉暦元年八月一日、寿八八歳を全うして示寂した。
日朗の弟子中最上足でありながら、顕功は日輪・日像の両師に譲り、自らは随従給仕の誠をつくして、道陰徳の人とよばれた。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮宗大観』、『本山歴代記』、『日蓮教団全史』上、『日本仏人名辞典』「日澄」の項》

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