日求(智門院)
日求(智門院)
にちぐ
(一五七六-一六五五)
智門院と号す。
天正四年越中に生る。
本成寺一二世日藝の門に入り、最初了因坊速治と称したが後改めて勧持院日求と号した。
上洛して内外の学を究め、慶長一六年(一六一一・元和九年説も有り)本禅寺一〇世の法灯を継ぐ。
在職三三ヵ年、この間天文法難後衰退した教線の拡張、寺門の興隆に力を傾注し、塔頭の本高院・円龍院・東性坊・養善坊の四坊及び客殿・書院・庫裡・惣門拝殿・梵鐘・鐘楼・土蔵等を建立して寺観を整備一新せしめた。
また寛永六年(一六二九)本隆寺九世日証との間に、日覚・日映によって取交わされた法水一味両門通用の盟約の再交換をなした。
慶安四年(一六五一)五月寺内に隠居して智門院と号した。
日求は教学的にも低迷期にあった陣門教学の復興をも図り学徒の育英にも力を注ぎ、芝長応寺日耀の請により寛永八年日陣・日現・日覚の遺著より教観の奥義を集録して陣門教学の大綱を祖述し『堂朦懐覧集』三巻(『宗全』七巻)を著し、更にこれを刪略した『指示堂朦大綱抄』一巻を著した。
他に『本迹顕異記』一巻、『富士・朗門・向門ノ事』一巻、『心鏡浮義』一八巻、『本尊抄私記』一巻、『開目抄私記』一巻、『開観両抄科文』一巻等があり、日現・日覚・日相らと共に陣門教学の四哲と称されている。
日求の教学は日覚教学の伝統を踏んで本門の法体を寿量品に説き顕わされた一念三千とし、これが仏意の深奥であり本迹を法体勝劣の立場から論じている。
そして一経三段の本迹は今昔相望の化儀の本迹で在世正意であり、二経六段の本迹は二経の法体に勝劣を分かつ教相の本迹で滅後正意であると判じている。
そして本門開顕後の一部本門とする事については方便品は理の一念三千の説かれた場所、寿量品は事の一念三千の説かれた場所であり、これは開顕後も不変であり、一部唯本とする事は本迹の教相を混合するものであり、もしそれを可とせば権実判も成立しない。従って教相判釈の必要がなくなる。
宗祖が教判を立てられているからにはあくまで迹門を未開、本門を已開としての立場にあるのだと論じている。
また日求は陣門が朗門の正嫡であるとし歴史的に立証せんとし、什門、隆門に対しても陣門の優位性を強調した。
明暦元年八月二日八〇歳にて遷化。
《『日本仏教人名辞典』「日求」の項》