感応寺(廃寺・鼠山感応寺)
感応寺(廃寺・鼠山感応寺)
かんのうじ
東京都台東区谷中にあり、元日蓮宗巨刹の寺院で、山号は長耀山と号した。
元禄一一年(一六九八)に天台宗に改宗させられ、護国山天王寺という。
当時九世日長による『長耀山感応寺尊重院縁起』(慶安元年=一六四一)によれば、当時草創は日蓮聖人鎌倉より安房、下野国塩原等往還する折、関小次郎長耀の家に宿した。
よって深く聖人に帰依し、草庵を結んだという。
また開山は岩本實相寺を開いた中老僧日源とする。
寛永年間(一六二四-四三)、日長は三代将軍家光・英勝院の外護を受け寺領を拡大、寛永一八年には二万九六九〇余坪の地を拝領した。
『江戸名所咄』(元禄七年=一六九四)には「寺内は広大にして本堂の前に五重の塔あり、鐘楼経堂三十番神左に立給ふ。坊舎も二十余ケ所あり」とあり、当宗不受不施派巨刹の寺院であった。
寛文年間(一六六一-七二)に入り、徳川幕府は、不受不施派を抑圧。
寛文五年の時、当寺日純が寺領を悲田供養(仏法による慈悲)であるとの立場を取って存続したが、元禄一一年(一六九八)一一月に幕府は悲田派を禁じた。
その結果、当寺は天台宗に改宗され、日遼・日饒は配流された。
天保四年(一八三三)一一代将軍家斉の時、日蓮宗に帰属させる達書が提出され「感応寺」という寺号のみ存続された。
しかし、天台宗側はこの達書を受入れず、その結果天保四年一二月一七日「護国山天王寺」に改称された。
天保五年五月に至り、将軍家斉・中野美代の外護により雑司谷安藤下屋敷(目白四丁目・二万八六〇四坪)に新感応寺が建立された。
真間山弘法寺と同格で、開山は池上本門寺四八世日萬であった。
しかし、天保一二年に新感応寺も廃寺となった。
これが世に言う「鼠山感応寺」である。
天王寺境内には、本宗に関係するものに元禄三年日遼代鋳造の釈迦像があり、また歴代墓碑には開基日源・初祖日耀・二世日嘉・三世日昌・四世日春・五世日隆・六世日運・七世日進・八世日圓・九世日長・一〇世日妙・一一世日誠・一二世日純・一三世日映・一四世日饒と刻まれている。
《『東京都社寺備考』、『江戸西北郊郷土誌資料』、『本化別頭仏祖統紀』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同「ねずみ山感応寺」『日蓮宗の人びと』、『鼠山感応寺』、『日源上人とゆかりの寺院』》