悪魔魔障
悪魔魔障
あくまましょう
人間(凡俗)が宗教的霊気(神聖)を感じ、これに対して畏敬と恐怖の念を生ずるときが宗教の原初である。
この霊気は、人間の願望を満たし人間を守護すると信じられているとき、畏敬の念をもって仰がれ、もし災いをもたらし害を及ぼすと感じられる時は、悪魔魔障として恐怖の念をもって迎えられる。
しかし悪魔魔障といえども、法華経(陀羅尼呪)読誦唱題の功徳と法華経受持の修行者の教化によってのみ(一)仏威力、(二)三昧力、(三)行者本願功徳力の三力相応して、その邪気を転じて自らの仏性を顕現する事が出来る。
即ち、本然の霊気に摂取せられる。
魔は魔羅の略。
能奪命、殺者、障者、悪者と訳す。
悪魔魔障は夫々に語を重ね、その義を強めたのである。
悪魔障ともいう。
魔は人間を悩害するというが、鬼とは自ら異なる。
鬼には餓鬼、夜叉、羅刹等がある。
悪魔は仏道修行の障害をなすものの総称で、人間の煩悩に因って現れてくるので、その数や種類は甚だ多い。
欲界の第六天王を魔王として、魔民、魔人をその眷属とする。
そのうち魔醯首羅天(まけいしゆらてん)(第六天魔王、大自在天、伊舎那天ともいう)の子で毘那夜迦という魔は常随魔といわれる大悪魔で、他の天魔、地魔等は人間を時には襲い、時として去る事があるが、この魔は常に随って離れる時がない。
故に修行者は信心堅固に、行状を清白に保持せねば、毘那夜迦に愚弄され迷わされるのである。
毘那夜迦は障礙神ともいわれ、その姿は象頭人身、または豬頭象鼻である。
「摩訶止觀の第五の巻の一念三千は今一重立入たる法門ぞかし、此法門を申すには必ず魔出来すべし。
魔競はずは正法と知るべからず」(定九三一-二頁)とあるように、本仏果海中の魔障なのだから、差別なければ一切平等なりと信解して、悪魔魔障を統御摂伏させることが肝要である。
《『日蓮辞典』「悪魔」の項》