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御書五大部百部摺本

ごしょごだいぶひゃくぶずりほん #2111

御書五大部百部摺本

ごしょごだいぶひゃくぶずりほん

慶長年に寂照院日乾・心性院日遠が真蹟と校合し、身延久遠寺で出版した御書五大部立正安国論・開目抄・本尊抄・撰時抄・報恩抄)の百部摺本のこと。 日蓮聖人遺文の最初の刊本とされる。
刊行部数が少なかったため、慶長年出版の刊本は現存しない。
ただし文化五年(一八〇八)に刊行した深見要言の『本化高祖御書』は、この『御書五大部百部摺本』を底本としたもので、そこに序として収録されている慶長版『御書五大部』の慶長一四年(一六〇九)初夏の頃、寂照院日乾・心性院日遠の「」から、刊行の経緯を知ることができる。 この「」によれば、『御書五大部』の板木の彫刻は日乾・日遠の命によって日誉・日源・日顗らの日蓮宗「工匠」僧が、慶長一四年初夏までに完成させたことがわかる。 日源・日顗の「工匠」僧は、これより早く慶長六年京都で『日蓮聖人註画讃』の刊行に従事していたが、日乾・日遠の命を受け、その出版を終えるや、身延久遠寺に入り、『御書五大部』の彫刻に従したのである。 しかし、その版木の彫刻を開始したのは、日乾が久遠寺に晋山した慶長七年、また『本尊抄』の刊記から慶長一一年との見解が出され、定かではない。 いずれにしても、慶長一四年初夏には彫刻が完了し、もなく出版されたと考えてよい。
なお本書の出版を身延久遠寺とするに疑問視する説もあるが、次の史料は久遠寺で出版されたことを明確に示す。 「廷師仰ニ云、此以前乾遠二師御相談アテ、五大部ノ分、御真筆ヲ以テ一字一点モ相違ナク校合ナサレ則板ニ仰付ラレ、其百部バカリ板行シ、ヤガテ御停止ノ由ナリ。 右ノ内一部、御霊宝蔵ニ納給也。 彼板一枚モ紛失セズ今ニ身延ノ重宝ナリ御位牌堂ノ後戸ニ之アリ」(御書和語式)。 この史料は、板木の彫刻が完成した慶長一四年のものである。
また、これより六〇年後の寛文七年(一六六七)から同一二年(一六七二)まで久遠寺二九世として在住した隆源院日莚が、『御書和語式』の著者、久成院日相に語ったことを日相が記録したもので、『御書五大部』の板木が六〇年後の日莚の代においても久遠寺に所蔵されており、そこで出版したことを示している。
このように、『御書五大部』は日蓮聖人遺文刊本化の先陣を切ったものであるが、やがて数年後の元和年間には、京都本国寺で録内御書が刊行され、日蓮聖人潰文の刊本化が進んでいった。
《冠賢一「近世初期日蓮宗出版史の一考察」『大崎学報』一二〇号、高木豊「『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』の分巻をめぐって」『大崎学報』一二八号》

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