妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

島智良

しまちりょう #1922

島智良

しまちりょう

(一八七六-一九一四)
緯は日精、唯誠院と号す。
幼名は吉郎。
明治九年三月一六日秋田県秋田市土崎港で運輸を営むに生れた。
函館商船学校を出て関西方面で船に乗っていたが、たまたま京都本圀寺で宇中院日澍の法説を聴き、深く感ずるところがあって直ちに請いて弟子となり伏見墨染寺で得度した。 に明治二七年一九歳であった。
同二九年一〇月松ケ崎小檀林、次いで一三年四月京都中檀林に入り、やがて岡山中檀林に転じた。
三三年身延山に登り祖山大学院の傍聴生となり、祖山小檀林の助を兼ねた。
海解について学び、宇中院日澍の遷化後は改めて本成寺冷泉要惇の弟子となった。
海解に従って双榎檀林に入り勉学にいそしむこと二年、明治三八年四月再び身延山に帰り小檀林授となった。 と同に明治八年の大火にわずかに焼け残った身延東蔵の至宝を検討して身延文庫整備の端緒を開き、『身延山史』の研究に力を注いだ。
身延山当局に諮り、まず日朝・日意・日伝三師の遺著を整し、爾来幾星霜孜々として倦むことがなかった。 その整したものに『金綱集』『補施集』『三日講論議』『立正会論議』『例講問答』等六五〇余冊二〇余軸があり、また『祖書鑽仰』『本尊論資料』を編纂した。
つね日頃「私は本妙日臨の所謂屏風の裏打を以て任ずるものである。 唯忠実に資料を収集し按排して、その組織大成は後学に俟つ」と言っていたという。 日臨の高風を慕って精進潔斎し、身延波木井醒悟園を再興し、日臨の遺著を収集しては『醒悟園叢書』を世に出して後来末学を裨益した。
明治四二年七月日蓮宗大学教科書編纂委員となり、翌年これを辞して祖山学院授となった。
大正二年(一九一三)五月には長いの宿願であった比叡山遊学の途に上り、資料収集・研究に努めるかたわら苦心して聖跡横川定光院を復興した。
翌三年六月七日、掛錫先の坂本世尊寺において、前夜葉書数枚を認め机上においたままで、遷化しているところを発見された。 三九歳の若さであった。
同志は相語らってを生前追慕してやまなかった本妙庵(醒悟園)の日臨の傍に建てたのである。

← 事典トップ