寿福院夫人
寿福院夫人
じゅふくいんふじん
(一五七〇-一六三一)
寿福院花岳日栄と号し、名をチヨという。
加賀前田利家の側室で、三代利常の生母である。
父は上木新兵衛、母は山崎右京の女で、後に小幡九兵衛に再嫁したため小幡氏ともいわれる。
チヨは芳春院(利家の正室、まつ)の侍女だったが、二二歳の時肥前名護屋に下って利家の侍女となった。
宗門に残した功績は大きく、養珠院夫人に対して優るとも劣らない。
とりわけ、慶長八年(一六〇三)能登滝谷妙成寺を菩提所と定めるや、同一九年利常が大坂に出陣の際、武運長久を祈り本堂を建立、番神堂・庫裏・方丈等もまた同年に竣工したと伝えられている。
翌元和元年(一六一五)五重塔建立を発願し、同四年には発願主である寿福院も参詣している。
更に元和二年の客殿建立を始め、三光堂・御影堂・仁王門・鐘楼堂を相次いで発願建立し、また同五年には利家菩提のため、身延山の五重塔及び奥の院祖師堂拝殿等を建立した。
身延山では、この功を銘すべく、毎月六日の寿福院の命日には、宝蔵において、自我偈を読誦して回向したという。
その他、京都妙顕寺・中山法華経寺・比企谷妙本寺・金沢経王寺等にも外護を加えている。
かくの如く夫人は、本宗の熱烈な信者であり、以後、歴代の藩主の母堂で本宗に帰依するもの、六代吉徳の母預玄院、八代重煕の母心鏡院、九代重靖の母善良院、一〇代重教の母実成院など多く、寿福院はその嚆矢となった。
一方、宗門史上においては、かの身池対論前、寛永五-六年頃まで、寿福院が養珠院と共に身延方と池上方の間にたって相方を和融させようと積極的に運動し、努力した様子を、寛永六年三月長遠日樹が岡山蓮昌寺へ送った書状に見ることができる。
かくして寿福院は寛永八年(一六三一)三月六日、六二歳で江戸神田の邸に没した。
遺骸は池上本門寺にて火葬され、遺骨は妙成寺に、位牌は経王寺に納められた。
なお池上本門寺には、利常が母のために建立した元和八年三月一三日の銘がある十一層逆修塔が現存する。