定業能転
定業能転
じょうごうのうてん
運命づけられたものでも信仰の力で転ずることができるということ。
過去の業因により、業報を受けねばならない時期が定まっているのを定業という。
これに対し、時期が定まっていないのを不定業という。
定業には順現法受業(順現業)・順次生受業(順生業)・順後次受業(順後業)の三種がある。
順現業というのは、現世に為した善悪の報を現世に受けるもの。
順生業というのは、生れ代って報を受けるもの。
過去世において大善を為した人は、現世において悪を為しても、過去世の善を償いつくすまでは悪報を受けない。
「積善の家には余殃あり」ということ。
またその反対に過去世において大悪を為した人は、現世にて善を為しても、過去世の悪を償いつくすまでは、その悪の品により現世に夫々の悪報を受ける。
「積悪の家には余殄あり」ということ。
順後業というのは、三回目の生にまで報を受け続けるもの。
過去世において作ったところの善悪が、あまりにも強ければ、現世においてその報を償いきれないで、来世にまでその残余を受ける。
悪人が栄え、善人が不幸だということがある。
いくら信心をしても所願成ぜず、いろいろと苦難に遭う人もある。
これらは、その業因によるのである。
しかし信力堅固に、不退転の強盛な信心によってこれらの定業を転ずることができる。
定業能転とはこのことをいう。
『法華文句記』巻一〇下に「若し其の機感厚きは定業も亦能く転ず」とある。
修法師は、加持祈祷の力用によって衆生の定業を転ぜさすのであるが、その業因を知り、本人に強盛な信心と懺悔反省をさせねばならない。
日蓮聖人も「定業すら能々懺悔すれば必ず消滅す」(『可延定業御書』定八六一頁)、「設ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし」(『富木尼御前御書』定一一四八頁)といわれている。
優陀那日輝の『加持病患祈祷肝文鈔』には、「(略)業病これ罪障報障の病なり。
懺悔滅罪を用て勝福を修し之を対治す」とある。
このように定業も転ずることができるのであるから、業というものを宿命的に考えず、永遠の未来に向って人間の努力を強調したものであると考えるべきである。
《『遺文辞典』教学篇「定業亦能転(じょうごうやくのうてん)」の項》