孝勝寺(宮城県仙台市)
孝勝寺(宮城県仙台市)
こうしょうじ
仙台市に所在。
由緒寺院。
永仁三年(一二九五)に中老、一乗阿闍梨日門が開創、光明山大仙寺と称した。
のちに仙台藩主伊達忠宗の室、孝勝院秀岸日訊(振姫・名は富理子)が改修して寺号を善勝寺と改めた。
彼女は岡山藩主池田輝政の娘で、母は徳川家康の女。
家康の側室英勝院お勝の方に養育され、上意で忠宗の許に嫁した。
寛永一八年(一六四一)、英勝院は重病の床で自分の永年にわたる法華信仰を継承するように彼女に懇願した。
その遺志を受けた孝勝院は、国元の大仙寺を丹誠し、英勝院の追福を祈念したのである。
万治二年(一六五九)二月五日に夫人が没し、善勝寺に葬られたので、嗣子綱宗は寺号を孝勝寺と改め、妙法五字に因み山内に支院五舎を新たに造営、寄進した。
妙音院、法輪院、蓮香院、華光院、経王院がそれである。
綱宗の室で、綱村の生母である浄眼院了嶽日厳(三沢氏・名は初子)も法華信仰に厚い人で、貞享三年(一六八六)二月四日に没した。
綱村は母の遺言で孝勝寺に葬り、その菩提のため常唱題目堂を建立、寺領若干を寄進している。
綱村(肯山公)は宝永七年(一七一〇)に当時宗門の最高学府であった飯高檀林の首座の位にあり、その学徳を称讃されていた六牙院日潮を招いて、当寺に住せしめた。
日潮はときに三七歳であった。
綱村は好学の太守で、日潮の学徳を畏敬し、日毎に礼遇があつくなった。
彼が山川祖宗などを毎朝礼拝する日課の記に「一拝孝勝寺日潮上人」とあるというから、その傾倒ぶりがうかがわれよう。
日潮は当寺開山日門の伝記を調べたいと念願して、やはり開山寺である常陸の築地妙光寺なども尋ねたが、中古の兵乱で資料が散逸し、開創の事情すら知ることのできない有様であった。
彼はむしろ憤気ににた気持で一念発起し、諸山の史実を求め、享保一五年(一七三〇)に当寺の丈室で脱稿したのが宗門最高の史書『本化別頭仏祖統紀』である。
《『身延山史』、宮崎英修「養珠院と英勝院」『続・日蓮宗の人びと』》