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大田南畝

おおたなんぽ #1360

大田南畝

おおたなんぽ

(一七四九-一八二三)
江戸代中期の狂歌・狂・狂文・洒落本・滑稽本・随筆の作者。
名は覃(たん)、字は子耜(しし)といい、通称を直次郎、晩年には七左衛門と改めた。
号は南畝のほか、四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)が有名で、ほかにも寝惚(ねぼけ)先生、四万山人、舳羅山人、中門外史、巴人亭、滄洲樓、杏花園、遠桜山人、石楠齋、鶯谷隠士、惰農子、玉川漁翁、山手馬鹿人、風山人、新場老漁、四方屋本太郎等の筆名を用いた。
大田の先祖は詳らかではないが、父は幕府の小吏で、南畝も一七歳で督を相続し徒士となり、以後幕府の下級幕吏としての道を歩む。
四六歳に至り人材登用試である学問吟味に応じて及第し、その二年後から勘定奉行配下の支配勘定役に就くが、終生それ以上の出世には無縁であった。
地味であった役人の生活とは裏腹に、彼の文筆活動は華麗をきわめる。
はじめ内山椿軒、次いで松崎観海に師して漢詩文を好くし、一八歳で『明擢材』を編纂した。
一九歳のときに作った狂・狂文が風来山人平賀源内に激賞され、『寝惚先生文集』の名で出版された。
の田沼政権代の風潮を敏感に反映し、また和歌・俳諧その他の既成文学では表現しえないところを巧みに表現した点で広く愛読され、彼は一躍江戸における狂流行の寵児となった。
次いで唐衣橘州(からごろもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)ら若い幕臣たちと共に唱導した狂歌は、町人も加わり江戸庶民ので大流行となった。
中心人物として鋭い智、歯切れのよい諧謔、奔放な滑稽さなどに勝れた南畝は、菅江と共編の『万載狂歌集』を出した明年の頃には、いよいよ文壇の総帥の観があった。
これより先、安永には洒落本『甲駅新話』などの佳編で他の作を凌ぎ、また黄表紙にも転じて『比奴和日本』など数種を物した。 しかし明七年(一七八七)、彼は翻然として文芸活動を停止し、狂歌界と絶縁する。
四六歳で学問吟味に応試し、幕吏として再出発を図ったのはその後の寛政六年(一七九四)であるから、このにいかなる情があったのか未だ不明の部分が多い。 一つに筆禍説も考えられているが判然とはしない。
寛政改革代を過ぎると、彼の門下の宿屋飯盛(やどやのめしもり)、鹿津部真顔(しかつべのまがお)を中心として狂歌が更に流行し、彼は絶縁した斯界の外にあっても名声はますます高く、それを逃れるために使用した一時の仮号、蜀山人が皮肉にも全的に著名なものとなった。
狂歌・狂文も円熟味を増し、『千紫万紅』『万紫千紅』『四方のあか』など次々と刊行した。
また漢詩文も時の名と応酬して集文を著した。 幕吏としての南畝は好学、文章の能吏として七〇余歳まで勤めたが、その間、官板『義録』の編纂、外交文書の起草や翻訳に当たって績を残した。 更に古今の文献、史料を集めて多数の随筆を著し、『一話一言』『半日閑話』『俗耳鼓吹』その他、風俗史、経済史、書誌学の貴重な文献を今日に伝えている。 彼の著述は種々の文学形式にわたって非常に多く、これをまとめたものに『蜀山人全集』(全六冊、新百説林)があるが、なお漏れているものも多い。

南畝は文政六年(一八二三)四月六日、七五歳で没した。 そのは東京都文京区白山の日蓮宗本念寺にあり、法名を杏花院心逸日休居士という。
大田は父祖代々の日蓮宗徒であり、彼もその縁を大切にしたが、(『南畝莠言』)、殊に彼の場合、宗旨への関心は父母への追慕の念と結びついていた。 確かに彼の父正智(まさとも)(一七一六-八八)、母利世(りせ)(一七二四-九六)は熱心な信仰者であったらしく、「わが父母の世にいませし時、法華経の御名を唱ふる事のみ枕こととし給ひし」(『改元紀行』)、「年毎の千部には必ず池上にまうで給ひき」(『調布日記』)、「経題を念じて法華三千部の字数に充つ」(正智の『墓碑銘』)など、随筆、日記、紀行の類には日蓮宗あるいは法華経に話題が及ぶごとに、彼の筆は父母の信仰について語るのである。
ほかにも、日蓮上人のこと、霊場紀行、各寺由来、高僧逸話などの記が『葦の若葉』『一話一言』『半日閑話』『瓊浦雑綴』『武江披砂』に散見する。
なお、彼は後に法華信仰の故から「寝惚先生」の号を転じて「念法華(ねぼけ)先生」と改めた話も伝えられるが、実際にそれが著述に用いられた形跡はなく、いまは省略に従う。
以下、日蓮宗に関する南畝の狂歌二首、鶯「慈悲心も仏法僧も一声の ほふ法華経にしくものぞなき」(『千紫万紅』)、堀之内妙法寺にて「参詣のあゆみはとしやお祖師さま かしらを土に堀の内かな」(『千とせの門』)。
《『蜀山人全集』、永井荷風『大田南畝年譜』、森銑三『大田南畝』、浜田義一郎『大田南畝』、山上智海『法華外伝』、宮崎英修「江戸の文人蜀山人」『日蓮宗の人びと』、『国史大辞典』二巻「大田南畝」の項

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