大村法華
大村法華
おおむらぼっけ
上総七里法華や備前法華と並ぶ肥前大村藩四八ヵ村における法華信仰の地域的隆盛を大村法華と称している。
肥前大村の領主は大村氏で、ことに大村純忠は有名な切支丹大名である。
領内の寺社を破却し、一門・家臣を始め領民すべてを教徒たらしめんと努め、また長崎の地を教会領として寄進した。
純忠の子で大村藩初代藩主となった大村喜前も同様に切支丹大名であったが、豊臣秀吉が九州征伐を契機に切支丹禁教令を発布し、それが次第に強化されてくるに伴い、喜前の信仰もまた動揺してきた。
ただし大村氏、ことに純忠の切支丹信仰の動機は、切支丹になることで、一つには南蛮貿易を独占し領国経済の強化を計り、二つには一門・家臣団の思想的統一をめざすという戦国大名の富国強兵策の一環としての側面が強く、近世的政治体制の確立と、それに伴う長崎の収公であった。
しかし、外国貿易の独占が秀吉、ついで幕府になるにしたがい、前記のごとき意味からは切支丹信仰を持する必要もまた消滅し、却って所領相続にとって障害ともなってきたことによる。
伝承によると、大村喜前は文禄の役(一五九二)の際に、朝鮮において加藤清正に随伴していた本妙寺日真らに会い、法華の法門に触れたことにより法華信仰に関心をいだいたとされている。
また幕府が喜前を切支丹であるということで査問せんとしたとき、清正は喜前に題目を彫った脇差を贈り、喜前はこの脇差を証拠に法華受持者であって切支丹ではないと申し開きを行い家名断絶の危機を回避したという。
大村喜前は、こうしたことを機縁に法華経の信仰に入ったが、いずれにせよその入信には加藤清正の勧誘が大きく与っている。
かくて慶長七年(一六〇二)大村の耶蘇大寺を破却し、その跡に本経寺を創建、同一三年落成、本妙寺日真を招請して開山とし、大村家菩提所とした。
これがいわゆる大村法華の濫觴をなしている。
だが喜前の法華信仰の内実については疑点があり、切支丹を完全に棄てきってはいなかったようである。
『大村市史』上巻にパジェスの『日本切支丹宗門史』を引用し、喜前が慶長一〇年に教会を新設、宣教師を歓迎したこと等をあげている。
しかしながら幕府の禁教令に歩調を合わせて領内の切支丹禁制も強化され、それだけに反面では法華信仰の布教が盛んに展開されたと考えられ、慶長一九年(一六一四)には妙宣寺が新たに寺地を賜り、寺号を公称している。
本経寺の末寺八ヵ寺についてその創建由緒をみるに、大村藩三代藩主純信あるいはその期の藩老等との関係を伝える寺院が多く、大村藩における日蓮教団の展開は、ほぼこの純信の時期に完成したと考えられるが、その時期はまた大村藩藩政の完成期でもあった。
いわば大村藩の藩政の進展に応じて日蓮教団の発展がみられたといえよう。
こうして大村藩の宗教情勢は大略法華信仰に覆われた観を呈してきたが、それは先に挙げた上総七里法華や備前法華の場合と異なり、封建領主大村氏の支配権力による法華信仰の領民への強制ではなかった。
それは藩主大村喜前によって本経寺開山に招請された本妙寺日真、妙宣寺を開いた日順らおよびその門流の領内巡教によるところが大であったと思われる。
だが同時に大村純忠が切支丹になったことを宣教師らが歓迎し「貴人等一度、キリシタンとなる時は、一般の人は直ちに帰依」(松田毅一『大村純忠伝』、『大村市史』上巻)と評しているように、このたびの藩主およびその一門、家臣団の法華信仰への入信が領内の信教の動向に大きく影響していることは否定できない。
加えて霊就院日審の弘教や、一方では藩の農村政策の一つとして各村々に横目(付)を任命し、横目に農民の動向、ことに寺社参拝や題目講あるいは念仏講等への農民の参加の状況を毎月大目付に報告させているので、封建支配層の信奉する法華信仰への領民一般の入信の傾向に一層拍車をかけたであろうことは想像に難くない。
いま一例を挙げれば、妙宣寺所在の福重村は総戸数六六七戸でり、総人口は二四二一人であるが、妙宣寺の檀家は一三三五軒、法華宗に属する者二〇八五人を数える。
(『大村郷村記』郡村記福重村)。
村内の殆どが法華信者であり、妙宣寺は福重村を超えてその檀家を有している。
こうして法華信仰は『大村市史』下巻に述べるように、大村藩の国教的地位にあったのである。