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六訳三存

ろくやくさんぞん #768

六訳三存

ろくやくさんぞん

において漢文に翻訳された法華経に六種類あり、そのうち三種類が現存すること、あるいは現存している三種類の漢訳法華経をいい、また六訳三存三欠ともいう。
最初にその呼称の見えるのは、唐の開元年(七一三~七四一)に撰述された『開元釈録』巻第十一(『正蔵』五五巻五九一頁、ただし三存を三在に作る)、巻第一四(六二八頁)においてであるが、それは編者の智昇(六五三-七四〇)が従来の諸経録の記述を整したものである。
六訳とは、(1)『法華三昧経』、(2)『薩芸芬陀利経』、(3)『正法華経』、(4)『方等法華経』、(5)『妙法蓮華経』、(6)『添品妙法蓮華経』で、そのうち(3)、(5)、(6)が智昇の当存在し、現在も同様である。
これらの六経に関する項を整すれば次のようになる。

(1)『法華三昧経』六巻、支彊梁接訳、魏甘露元年(二五六)、交州にて訳出、欠本、『三宝紀』巻五(『正蔵』四九巻五六頁)に拠る。
(2)『薩芸芬陀利経』六巻、竺法護訳、西晋泰始元年(二五六)訳出、訳処不明、欠本、『三宝紀』巻六(『正蔵』四九巻六二頁)に拠る。
(3)『正法華経』一〇巻、竺法護訳、西晋太康七年(二八六)訳出、訳処は長安か、現存(『正蔵』九巻)、『三蔵記』巻二(『正蔵』五五巻七頁)に拠る。
(4)『方等法華経』五巻、支道根訳、東晋咸康元年(三三五)訳出、訳処不明、欠本、『三宝紀』巻七(『正蔵』四九巻六九頁)に拠る。
(5)『妙法蓮華経』七或は八巻、鳩摩羅什訳、姚秦弘始八年(四〇六)訳出、訳処は長安、現存(『正蔵』九巻)、『三蔵記』巻二(『正蔵』五五巻七頁)に拠る。
(6)『添品妙法蓮華経』七或は八巻、闍那崛多・達磨笈多訳、隋仁寿元年(六〇一)訳出、訳処は長安、現存(『正蔵』九巻)、『静泰録』巻二(『正蔵』五五巻一八九頁)に拠る。

右の六訳のうち現存する三経については問題が少ないが、現存しない三経は翻訳者、翻訳年代、翻訳場所とも『歴代三宝紀』において初めて現れるもので、それらが実際に存在したものか疑われている。
まず『法華三昧経』は、『三蔵記』巻第四の失訳雑録の中で『正法華経』の別名かと疑いながら収録したもので、『法経録』では『正法華経』六巻失訳とし、その系統の目録である『彦琮録』『静泰録』も同じである。
しかるに『三宝紀』は『竺道祖録』の中の『魏世録』と『始興録』とにより、甘露元年、交州、支彊梁接訳としている。
ただし翻訳の地を交州とし『始興録』は『南録』といわれる目録であるから『呉録』に入れるべきであるとする。
そしてこれが同系統の『内典録』『訳経図紀』を経て『開元録』に伝えられ、呉の五鳳二(実は三)年に改められた。
最も信頼出来る目録である『三蔵記』が、既に失訳、欠本とし、『三宝記』の編者費長房も編集に加わった『法経録』もそれに従っているにもかかわらず、当時既に存在していない他の経録、例えば『宝唱録』に引用されて知られる『竺道祖録』や全く内容不明の『始興録』により、訳者、訳年等まで記述している『三宝紀』の記録を信用してよいかは当然疑問となる。
なお現在『法華三昧経』という経典が伝えられていて、法華三昧を説いているが、その法華三昧とは『法華経』の所説に関係ある三昧ではなく、全く異る方法による観である。
従って支彊梁接の『法華三昧経』には相当しない。
次の『薩芸芬陀利経』は、『三蔵記』巻第二の新集別出経録第二の下に『法華経』を出し、下記に「旧録に薩芸分陀利経有り、是れ異出の法華と云う。 未だ誰の出か詳かにせず。 今此の経を闕く。 竺法護、正法華経十巻を出し、鳩摩羅什、新妙法蓮華経七巻を出す」と述べ、「右一経は三人の出なり。 其の一経は訳人の名を失う。 已に失源録に入れたり」(『正蔵』五五巻一四頁)といい、同じく巻第三の新集安公失訳経第二の下には『分陀利経一巻』を挙げ、下註に「旧録に薩芸芬陀利経と云う。 或いは云う。 是れ異出の法花経なりと」(『正蔵』五五巻一八頁)といっている。
前の記録は巻数を示さないので、あるいは全訳の『法華経』かとも思われるが、已に『失源録』に入れたという点からすれば、七巻、一〇巻と同本異訳とする記述に疑問があっても、後の分陀利経一巻を指すものとも見られる。
一方『三蔵記』に引用される旧録という名称は『竺道祖録』を指す場合があるので、もしそうであれば、『三宝紀』に『薩芸芬陀利経』六巻を挙げ、下註に「太始元年訳。
竺道祖晋世雑録に見ゆ」(『正蔵』四九巻六二頁)といい、竺法護訳出としていることにも多少は可能が残されている。
なお梁の『高僧伝』の竺法護の項に、法護が敦煌から中華に到る途中で訳経に従したと見られる文章があり、『正法華経』の翻訳以前にも『薩芸芬陀利経』のあり得る傍証とされることがあるが、その意味は最初に中華に到る過程の一期を指すのではなく、死没するまでのに敦煌、中華の各所で訳経したという意味である。
従って『正法華経』の前にも『法華経』の翻訳があった証拠にはならない。
なお現在『薩曇分陀利経』という一巻本の法華経が伝えられていて、『薩芸芬陀利経』との関係が問題になるが、現存のものは『見宝塔品』の一部分を『提婆品』に加えて独立の一経にした部分訳で全訳の経典ではない。
最後の『方等法華経』五巻は『三蔵記』、『彦琮録』、『静泰録』等の諸経録に全く記載のない経典で、最初に記録の現れたのは、やはり『三宝紀』である。
三宝紀』巻第七(『正蔵』四九巻六九頁)に、成帝世、咸康元年、支道根訳として挙げるもので、これも『竺道祖録』に拠るとする。
そして『内典録』を経て『訳経図紀』では、支道根を支道林となす。
しかしその後の『大周録』、『開元録』等も支道根とする。
一般に『三宝紀』記載の梁以前の経典に関する独自の記録には信用の置けないものが多い。
それは編者の費長房が、当教の対抗者であった道教に、その優越を示すため、記録を改作したり、確実でないものをも付加したりしたためである。
法華経の三闕に算えられている経典もそれに類する可能が強く、実在しなかったと見るのが妥当であろう。
塩田義遜『法華経の研究』、同『法華学史の研究』》

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