仏跡カピラ城開発振興会
仏跡カピラ城開発振興会
ぶっせきかぴらじょうかいはつしんこうかい
昭和四二年(一九六七)ネパール政府と共同で唯一不明の仏跡「カピラ城」解明のため、比定地ティラウラコットの発掘に着手した「立正大学ネパール仏教遺跡調査団」の後援に、下田市了仙寺の松井大周(当時、三島市玉沢妙法華寺住職)が用いた会名である。
数年後再度のインド・ネパール仏跡特別巡拝団員三〇名の僧俗が加わり団体組織となり「カピラ会」と改称した。
会長松井大周、副会長片桐海石、三谷会祥、幹事関観康、沖原成行、事務所を東京上野徳大寺に置いて広く後援活動をした。
(一)発掘調査始末とその成果=昭和四一年一二月立正大学仏教学中村瑞隆、地理学大村肇、考古学坂詰秀一、出資者松井大周が予備調査に出張し、二三日ネパール王国考古局長R・J・タッパと期間五年延長可。
出土品の分譲、報告書出版、旅行者巡礼者への遺跡整備等、後の本協約の基となった共同発掘についての覚書(仮契約)を交換した。
翌年一〇月一九日ネパール政庁で本協約を調印、一一月二三日宗務総長片山日幹、宗会議員北村行進一行の鍬入式で第一次発掘開始、延長一〇ヵ年間に八回発掘し、大量の出土品と三重の遺構、門、塔趾等を検出し、昭和五三年三月共同協約調査を終了した。
二月報告書『チラウラコット』第二巻図版篇を東京雄山閣より出版した。
その結果はインド側ヒプラワは塔を含む僧院遺跡に対し、ティラウラコツトは記銘遺物の出土はないが、釈尊前後よりの城塞遺跡であることが確認されて、カピラ城の最有力な遺跡と見られるに至った。
従ってこの上はティラウラコットの更に広範囲な発掘と周辺遺跡の調査に決定を委ねることになった。
しかしネパール政府が発掘現場と出土人形の写真にNEPAL KAPILAVASTU(TILAURAKOT)1977 30p記名の記念切手を発行したことは、国がカピラ城決定を宣言したことになる。
(二)後援の経過とその目的=後援の初めは松井が一七〇万円を寄進して共に予備調査を敢行したことで、これがカピラ城発掘調査事業の動因となった。
次いで第二次遠征に薬品衣料・モーターバイク調達。
第三次には二四〇万円を寄進。
この発掘中に中村日謙、松井大周・啓子と三名で現地視察、隊員慰問、インド隊ピプラワも視察。
第四次には一八五万円寄進。
この発掘中、昭和四七年一月第一回インド・ネパール仏跡特別巡拝を実施、僧俗一八名。
管長名代松井大周、宗会議員片桐海石、三谷会祥、小林行雄、吉田文堯、秋山智孝に渡部総長より発掘情況視察を委嘱。
現場に二泊、金品を贈り篤く隊員をねぎらい情況を視察。
次にネパール政庁を表敬訪問、宗門より国王への感謝状と記念品、大学よりの記念品をK・ビスタ首相に贈呈し共に発掘の成功を誓う。
帰国後総長及び宗会へ報告。
映画「幻のカピラ城」製作。
政庁火事見舞を大使館へ、カメラを考古局へ。
発掘が聖誕七五〇年慶讃記念事業に指定。
慶讃会より二〇〇万円、カピラ会より五〇万円で、煉瓦と鉄線の遺跡保護囲柵を寄進。
昭和五一年二月第七次中、宗門の委嘱でビレンドラ新国王戴冠式表慶使節団を結成、第二回インド・ネパール仏跡特別巡拝を実施。
僧俗一八名、発掘現場二泊、隊員慰問、宗門とカピラ会寄進の囲柵等遺跡視察、インド隊ピプラワも視察し、両カピラ比定地を比較検討。
二二日宗門より祝品を献上し二三日世紀の大典を参観した。
昭和五二年九月八日立正大学は池上で正式の発掘調査報告会を開いた。
席上中村主任は詳しくティラウラコットの有力化をのべ、学長・菅谷正貫は一応本格的調査の終止をのべ、宗門及びカピラ会の強力な財政援助と現地までの慰問激励に対し重々感謝の意を表し、松村寿顕総長は仏教史上の画期的事業と認めてカピラ会と共に強力に援助したが今後は大学、宗門、カピラ会が応分の協力をして最後を立派に全うしたいとのべ、松井会長は究明決定と霊跡顕彰を期待し、関係者一段の努力を要望し、カピラ会員の奉仕の決意を披瀝した。
昭和五三年四月一三日東京上野でのカピラ会総会は改めて会の存続充実を決め「出釈氏宮」実現への初志を再確認した。
昭和五四年九月七日、立正大学熊谷校舎の考古学陳列室にティラウラコットの出土品が展示された。
この出土品はティラウラコットがB・C八世紀即ち釈尊時代より数代前からの城塞遺跡であることの立証に役立つものであることを付記する。
《『岩波仏教辞典』「カピラヴァスツ」の項、坂誥秀一『仏教考古学事典』雄山閣》