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遠寿院(千葉県市川市)

おんじゅいん #4985

遠寿院(千葉県市川市)

おんじゅいん

千葉県市川市に存する法華経寺の山門内左側に所在。
開山は法華経寺三世浄行院日祐(一二九八-一三七四)の法孫、泰福寺(千葉県市川市に所在)七世経王院日詳(-一六七八)。
創立年代には二説ある。 ち日詳が副伝師の時、法華経寺二四世真如院日逮(一六〇五-七〇)の命をうけ、寛永一一年(一六三四)四月行堂を開き、これを円立と称したという説。 一方、中山遠寿院由緒の「寛文十年四月、中山泰福寺経王院日詳、法華経寺日逮の命により円教坊跡に一堂をたてて円立坊と称し祈祷伝法の道場とす」という説である。 両説に三六年の創立年代の相違がある。 しかし両説ともに共通点のあることは「日逮の命を日詳が受けた」ということである。
法華経寺は、三山(妙寺・本法寺・頂妙寺)三年(必ずしも一定ではない)輪番制が施行されていた。
この三ヵ年の原則に大差ないと見れば、日逮の輪番は二七世顕寿院日濱(一五九五-一六五八)より九年前と見て寛永一〇年前後の期と推せられる。 従って遠寿院由緒で述べている所の日逮の寛文一〇年ころの輪番貫主とはありえない(日逮は寛文一〇年七月一日寂)。
また前者の日詳副伝師の説であるが、三山輪番制により法華経寺の貫主は祈祷修法の伝師を務めていた。 しかし当の法華経寺の情勢から考えて、副伝師を置いていたということはあり得ない山規といえる。
これらの問題はともかくとして、その由来を先師日詳に仰ぎ、道場創設を円立創草のとする遠寿院由緒は真を伝えている。
中山(法華経寺)流祈祷の名を世に弘めたのは、円立坊三世日久(一六六三-一七二八)である。 日久は日詳の法資泰福寺八世正日遼の弟子で、のちに中山浄光院の法性院日逮(のち日諦と改めた)について修行し、元禄五年(一六九二)三〇歳の時相伝をうけた。
翌年に身延参詣修行を志し、同八年までの三ヵ年間に七面山参詣七回、参籠百ヵ日をおえ、雲切満行院日順より指南をうけた。
日久の弟子遠寿院日行は日久遷化後、円立を遠寿院と改めたと伝えるが、円立五世本寿院日妙(-一七三七)の代にはまだ遠寿院とは改められていない。 恐らく円立六世幸輪院日法以降まもないころに改められたと考えられる。
この点はさておき、日久のあと四世日行のころの「入行者列名記録によれば、元禄五年より同一五年に至るに五名の加行者をみ、宝永七年(一七一〇)より享保一一年(一七二六)に至る間に、一二名、それ以後僅かながら加行者も二年に一名の割合でふえている。
そして享保末年より宝暦年ごろに至る約二〇年(一七五五頃)には中山の祈祷相伝下に名をなすに至った。
《宮崎英修『日蓮宗祈祷法』》

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