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荏原氏

えばらし #4601

荏原氏

えばらし

その系や蹟については明らかでないが、源義の系流をひく柄とする説が有力である。 これによると、
 義-義親-義信(武田氏)-義政-政宗-
義宗(荏原氏)-有治
       └-朗慶
の系図が伝えられ、義宗の代に初めて荏原を称したという(『荏原中延史』後編)。
義宗は寛喜三年(一二三一)に生れ、宗尊親王に仕えて左衛門尉に任ぜられた。
正元元年(一二五九)に武蔵荏原郷の地頭となり、口分田四反をうけ、同郷中延の地に居館を構え、氏神として中延八幡宮を勧請した。
一説によるとこの八宮の神体は荏原氏伝来のもので、義宗は自らその縁起を作成、神体と共に子息朗慶に付与したという。
朗慶は日朗の弟子となり、朗門九鳳の一人に挙げられる。
父の没後に、この地に八宮とその別当寺である法蓮寺を創建、その開山となったとも伝える。
義宗は初め鎌倉にあって蘭渓道隆のもとに参禅したが、弘長元年(一二六一)の頃に、池上宗仲、四条頼基などと共に松葉谷の草庵で日蓮聖人の教化を受け、師資の契を結んだ信力堅固な檀越である。
伝説によると、義宗は文永一一年(一二七四)に日朗の命で鎌倉由比郷の松葉谷妙法寺の別当となり、弘安元年(一二七八)剃髪して長勝と号した。
同五年一二月に松葉谷の境域に長勝寺を創建、同八年に五五歳で没し、長勝寺に葬られたと伝わるが明らかでない。
中延八宮には義宗および朗慶の譲状と称する古文書などが伝存し、日蓮聖人によって勧請された八幡宮であることや、荏原氏伝来の神像の由来などを記すが、筆跡、紙質、文体などから考えて、到底当のものとは思えない。 後世に荏原氏にまつわる伝承を裏付けるために捏造されたものであろう。
なお荏原氏池上氏と姻戚関係であるとすると宗門の伝説もあるが、これを立証する資料がない。
《新倉之『荏原中延史』後編》

図版

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