妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

東寺(京都府京都市)

とうじ #3543

東寺(京都府京都市)

とうじ

京都市南区に所在。
東寺真言宗の総本山で正式には教王護寺という。
桓武皇の延暦一五年(七九六)に大納言藤原伊勢人を造寺長官として羅城門の左右に東西両寺の造営が始まり、弘仁元年(八一〇)の頃には一部例外を除いて多くの私寺を破壊して、この両寺(西寺は福元年=一二三三に焼失、再興ならず)の造営に充てられた。
両寺は弘仁一四年一月一九日に嵯峨皇より、西寺は南都の守敏に、東寺は空海にそれぞれ勅賜された。
これに伴い、この年の一〇月には太政官より治部省への符をもって東寺に密教学者五〇人を選んで密教経論の修学をさせて官寺としての立場を強めた。
そして淳和皇の長元年(八二四)六月に師資相承の道場、真言弘伝の本所と定められ、空海は『仁王経』の国を護るという趣意に基づいて、自ら仁王護国の本尊を彫刻し堂内に安置した。この時に東寺を教王護寺と改称している。
しかし、このに至っても建物の完成はしておらず、長三年に至ってもまだ造営中で、この頃より東山稲荷神社と東寺との関係が密となり、稲荷神社の神木を造営の材料として得るかたわら、稲荷は東寺の鎮守となった。
承和元年(八三四)一一月に朝廷は空海を阿闍梨とし、東寺長者に補任した。
東寺の全盛代は延喜一八年(九一八)ごろで、この年に空海は宇多天皇より弘法大師諡号が与えられた。
東寺の発展は逆に高野山との対立を深め、空海の死後、東寺の長者が高野山座主を兼ねるに及んで、東寺が決定的勢力を持つに及び、これは高野山に覚鑁が出るまで続いた。

日蓮聖人は建長三年(一二五一)京都に出て多くの書籍を訪ね、仏教以外の学問や書道にもその能力が発揮され、この時に密教の研究のため東寺に遊学する。
東寺と日蓮聖人との関係は東寺の僧真広の仲だちにはじまり、真広は宝治二年(一二四八)に日蓮聖人遊学の時に会っており、その時より日蓮聖人に信頼をおいていた。
真広は東寺門前の法華堂に住していたので、これを介して東寺、仁和寺の書庫を探り、真言密教の勉強をした。
一方真広は日蓮聖人に対する造詣が一層深まり、弘安四年(一二八一)二月には身延山に登り受をする。
東寺にもどってからは更に法華経に対する熱意が発露し、延慶四年(一三一一)に東寺門前の法華堂を成就山法華寺と号し、本化の道場としたという。
《辻之助『日本仏教史』上世篇、『高祖年譜』、『蓮公行状』、家永三郎篇『日本仏教史』、『遺文辞典』歴史篇「東寺」の項、『史大辞典』四巻「教王護寺」の項

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