妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

本圀寺移転

ほんこくじいてん #3366

本圀寺移転

ほんこくじいてん

正嫡付法の伝統を有す大光山本圀寺は、多数の末寺と広大な土地を所有して、その大堂伽藍は大本山の威容を誇り、明治年間(一八六八-一九一一)には釈日禎、三村日修、岩村日轟、旭日苗らの管長を輩出して隆盛を極めた。
昭和一五年(一九四〇)一〇月本末制が廃止されると経営基盤が崩壊し、固定資産の果実や僅少信徒の護持力をもってしては維持経営に困難を来した。 加えて宗教法人法の施行により、塔頭寺院は元来本圀寺の寺有地をそれぞれの所有地として平等の法人格のもとに所属檀を定めて独立形体を整えた。 本圀寺はぬけがら同然となり諸堂伽藍はその威容が過重の負担となり、重要文化財の経蔵を始め必要修理に欠いた。 近代における代々の貫首も経済的窮状が禍因となって対応策もしいままに在位久しきを保ち得なかった。 その不動産の処分も相次ぎ次第にジリ貧の様相を露呈した。
昭和三二年(一九五七)増田日遠就任、復興務局を設置、境内の清整から団参施設の整備に努め、芸能界物故者の大法要、立像釈尊の出開帳等懸命に復興発展策を構じたが朽廃する諸堂内外の修覆に及ばず、役職の給与も不足して所詮抜本的打開策を必要とした。
昭和三六年二月一五日総代会を開いて対策を検討の結果「寺有地の大幅処分、一部移転、基金一億円の造成」を決議。 次いで一○月二四日、干与総代会で一層具体化し「鎌倉松葉ケ谷、旧本圀寺跡への移転と長勝寺の本圀寺合併」を決議している。 翌三七年一月一三日決議を再確認し、促進委員会を設置したが、反対運動が宗内抗争の様相を呈したので日遠は辞任し、五月二二日西川景文が就任、一一月一二日、寺有地七五〇〇坪について坪単価五万一〇〇〇円で三陸木材株式会社と売買契約を行い、売買予約の仮登記が設定された。
翌三八年二月一日西川は緊急罷免され鷄内智賢が特選された。 異議申立ての結果四月六日復権したが、対立抗争の根底にある財産処分主動権争いの深刻化を嫌い、後を三谷会祥にして一〇月二三日退任した。 この特選されていた鷄内の委任状によって三五〇〇万円で寺有地に抵当権、諸堂に賃借権が設定され、更に質権が設定されて借入金は元利合せて莫大な数字に及んだ。
西川のあとを受けた三谷は一二月三日役員会を開いて契約の確認を行い、関係者の意見を容れて第三者に売却する場合を含めて翌三九年三月四日公告、同月一六日宗務院の認証を得た。 残金支払がないため本圀寺は三陸に解約を通告。 三陸は翌四〇年一月売買予約の仮登記を大阪の酉島土地建物(株)に譲渡した。 本圀寺は酉島土地の解と協力を得て八月三日登記上の諸権利を抹消、八月六日公務員共済組合連合会と契約し売却を実行した。 三谷は山科に二万坪の土地を求めて本圀寺の移転先を決定し、一億円の基本金を積み、翌四一年五月二三日退任、移転復興のバトンを小野好秀に渡した。
青木その他から行われた三谷に対する告訴はすべて不起訴、基本金を仮差押えしての連合会及び本圀寺に対する民訴訟は昭和五三年一二月和解が成立して解決、本圀寺への和解金一億三八八○万円、土地代金未収分一億一五一二万九六〇〇円、預金中二七七五万円のほか今後の撤収費二八○○万円、合計三億五〇〇万円を超える入金があった。
このに昭和四四年五月退任した小野に代って就任した伊藤日瑞は、柿本町の残存地約一〇〇〇坪を戸田建設に売却した土地代金四億四七七五万円と、仮差押えを解除した基本金の一億円とを資金として三谷、小野代購入造成の山科の土地に、本師堂、客殿を移築、経蔵、清正公廟を含めて移転を完了した。 日瑞の報告書には残金一億二五〇〇万円は、流用厳禁の基本金五〇〇〇万円と架橋工費七〇〇〇万円その他に充当することが記録ざれている。
昭和五四年五月七日日瑞の遷化により梅本鳳泰が後住職となり、山科本圀寺は再出発している。

【補記】梅本氏の後、水谷諦俊、久村諦道、吉田宏遠、伊藤瑞叡の歴代諸氏により復興が続けられている。

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