有作無作
有作無作
うさむさ
有作とは有相ともいい、造作を加えられたもの、有りのままでないことをいう。
無作とは一切の生滅、因縁を離れた無為の理をいう。
この概念は福田思想、四諦観、仏身観等に用いられるが、その一例を挙げれば次のようである。
(1)有作福田・無作福田。
福田とは福徳を生みだす田の意で、仏・僧・父母・苦しみ悩む者などに施せば福徳、功徳を得ることからこれを田に喩える。
この福田には敬田・恩田・悲田の三種があるが、むくいを求める心があることを有作福田、報いを求めずに善業を積むことを無作福田という。
(2)有作四諦・無作四諦・苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦を解釈するに当って、大乗の立場から、小乗の四諦は不完全で滅諦を悟って後にも修作すべきものが残ることから有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観はのちに修作すべきものがなく完全であるから無作四諦と称する。
なお天台大師は『法華玄義』の境妙を述べる中で、円教は無作四諦を説くと規定し、生死即涅槃、煩悩即菩提を無作の特徴として蔵教の生滅四諦、通教の無生四諦、別教の無量四諦と区別した。
つまり円教においては証すべき涅槃もなく、求むべき菩提もないところを至極の理とするところに特色があるわけである。
(3)有作三身・無作三身。
仏格を構成する法身・報身・応身の三身を解釈するに当り、有作無作の概念を用いる。
無作とは因縁の造作を超越した常住不変の存在という意味であることから、無作三身とは常住不滅の三身具足の仏という意味である。
中古天台の教学では、実修実証の仏は修行によって三身を具足した仏であるから造られた仏、即ち有作三身であり、無為自然の未修未証の凡夫に本有より具している性得の三身こそ修行の造作のない無作三身であるから、実修実証の仏より勝れたものと考え、凡夫を絶対肯定しようとする。
日蓮聖人の遺文中に無作三身の用語が見られるが、この場合、中古天台本覚思想の色彩が強く、『開目抄』『観心本尊抄』等に見られる仏身観の概念と異なりをもつ。
それ故に聖人の無作三身義については更に検討されねばならない。
《『遺文辞典』教学篇「有作」「無作」の項、『天台学辞典』「無作の四諦」の項》