妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日耀(勝光院)

にちよう #2906

日耀(勝光院)

にちよう

(一六三六-九七)
字は勝光であったが、のちに字をもって号となし勝光院と号する。
身延の日暹の法孫に当り、本通院日允の門人である。
九歳の、関東中村檀林に学び、一七歳で身延の隆源日莚に文句の講を開き、次いで南都に学んで唯識・梵網古迹などを究め、やがて鷹ケ峰檀林の化主・中村檀林主ともなった。
本法寺を董して中山に輪番を務め、更に妙顕寺一八世となった。
日耀は寺門の経営よりも、むしろ宗教的体験の獲得と学の復興につとめたというべく、四六歳のには冬期一〇〇日を期して苦修練行を積み、その行住坐臥は常信常唱の行にほかならなかった。
山陰雑録』(日耀の門人・了義日達に依る)には日耀の行状を称えて「終生紙衣布衲を改めず、容を矜しみ、言を正しくし、苟しくも戯謔せず」とある。
また四八歳のには岩本実相寺の経蔵に入って蔵経を周覧し、研学に捲むことがなかったのである。
五八歳の水戸光圀卿の礼をもっての招きにより三昧堂檀林に赴いて法華文句じた。
元録一〇年五月、光圀に惜しまれながら帰洛、この、光圀より花鳥の屏風一双を贈られる。
同年一一月二〇日、鷹ケ峰体真庵において六二歳をもって示寂した。
なお日耀の師・本通院日允の父は本阿弥光悦であり、日允は中村檀林の玄義講主を経て本法寺一八世となったが、日允の門人に人多い中でも日耀は、妙覚寺主周偏院日進、玉沢主日好、正峰主日如らと共に、それらの第一に列記されている(『本化別頭仏祖統紀』)。
日耀の著述に『法華随力演説抄』二巻、『致劣得意抄』一巻がある。
その学はむしろ台学にあったが、日耀は重門の宗義を自ら実践し、宗義の宣揚に努め、鷹ケ峰系における宗義尊重の気風を養ったことに大きな意義がある。
爾来、日耀のその気風を承けて、鷹ケ峰檀林より明静日堯、日耀の法弟・禅智日好、一音日暁、日耀の門人の了義日達そして常在日深の学匠が輩出し、門人にはほかに真如日等があり、いずれも学界に貢献した。
《『日本仏人名辞典』「日耀」の項》

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