妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日惺(仏乗院)

にっせい #2664

日惺(仏乗院)

にっせい

(一五五〇-九八)
乗院と号す。
池上本門寺の第一二世を継ぐ。
京都妙覚寺一八世実成院日典について修学し、早くよりその名声が響きわたっていた。
、比企・池上の両山は一一世寿院日現が永禄四年(一五六一)に遷化の後、二〇年間空位となっており、池上大の日儭と比企本行院の日慶は相諮って、日惺を比企谷の主職に屈請した。
正九年(一五八一)日惺三二歳の時、日蓮聖人の三〇〇遠忌の年であった。
正一八年八月、家康の江戸開府に及び、従来、主職はその根拠地が比企にあって池上を兼ねたのを、池上に常住することを命ぜられ、以後両山主職は池上に専住することになり、日惺はその嚆矢となった。
また府内に五ヵ所の地を給せられ、神楽坂鎮護山寺・品川実相山蓮長寺・興栄山朗惺寺・駒込朗昌山蓮久寺・浅草真立山正覚寺を開創した。
その他、日惺を開山に仰ぐ寺として、羽田山長照寺・朗長山本住寺・調布惺誉山蓮慶寺・池上山内本妙院等がある。
次に日惺在山中の蹟一、二を記すと、日惺晋山して五年目の天正一三年、上総伊北地方に世にいう大野法難が起った。
元来この地域は天台宗の勢力範囲であったが、両山八世日調が大いに教化を振るい、天正年間(一五七三-九二)には非常な勢力を持つまでになり、ついには天台宗東陽寺との間に宗論を生じ、武器をとって戦うに至った。
斯様な門の危機に際して日惺は付近の諸末寺に「門家ノ安危此時ニ候、諸末寺大小ノ僧侶残ス所無ク助力サル可キ者也」との下知を下す一方、領主里見義頼に書状を送り善処方を依頼し、態の収拾に腐心したのである。
また文禄の受不受論に際しては、京都諸山と対立する日奥の身を案じ、慶長二年(一五九七)の末、両者の歩みよりによる和融を斡旋すべく上洛し、調停に努めたものの不調に終り、その心労のためか帰途病を得て、翌年七月六日、六郷本住寺において示寂した。
寿四九歳。
なお、日惺の学に『注法華経』の編纂がある。当、注経は玉沢妙法華寺が格護するもので、当代貫首が日苞が日惺の弟子のゆえに借りうけ(替わりに池上蔵『兄弟抄』を預けた)研鑽した。
文禄五年(一五九六)のことで、日惺は弟子恕潤日税に筆写させ編纂にそなえたが、意図成就せず慶長三年(一五九八)示寂。急な遷化のゆえであろう借用の注経は返還できなくなって責任を負った日苞が自決する悲劇を生んだ。のち、注経最初の出版刊行として「惺師本註法華経」と称されているが延宝九年(一六八一)のことである。 《『日本仏人名辞典』「日惺」の項》\\   

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