彰義隊と宗門
彰義隊と宗門
しょうぎたいとしゅうもん
官軍に江戸城を開けわたした徳川慶喜は上野の東叡山寛永寺大慈院に居して恭順の意を表していたが、渋沢成一郎や天野八郎などの家臣は同志をつのって彰義隊を結成した。
初めは浅草本願寺を屯所とし江戸市中の巡邏の任を与えられていたが、慶喜の護衛の名目で屯所を上野に移した。
この彰義隊に諸藩の脱走兵が加わり二〇〇〇人から三〇〇〇人という勢力にふくれあがっていった。
彼らは市中で官軍の兵士と衝突を起すなど官軍との関係がひじょうに悪くなっていった。
初めは彰義隊との衝突を避けていた官軍も軍防事務局権判事大村益次郎が江戸に来るに及んで強硬策に転じ、田安慶頼の江戸取締の任を解くと共に五月一五日大村の総指揮のもと薩長十数藩の兵二〇〇〇人で上野を包囲し、本郷の台地に大砲をすえて午前一〇時頃から総攻撃を行い午後五時頃までの激戦で彰義隊は潰滅した。
このとき彰義隊の兵力は約一〇〇〇人に減っていた。
討伐を知って半数近くは抜け出していったのである。
この上野の戦闘で戦死した隊員二六六人の遺骸は後難をおそれて引取る者なく放置されていた。
これをみた箕輪円通寺仏磨は三河屋幸三郎とはかり山王台に火葬して埋葬した。
しかしその後この地も荒廃するにまかせていた。
明治七年(一八七四)彰義隊遺族関係者が集まって戦没者の慰霊のための宝塔を建立したが、その資金を寄付金に頼ったが集まらず多額の負債をかかえて建立した唐銅の塔も持去られてしまった。
この窮状を知った白山大乗寺鶏渓日舜(後の池上本門寺六六世本雄院良雄日舜)は多額の負債(三〇〇〇円という)を償却し、十七回忌に当たる明治一七年上野山王台彰義隊戦死之墳墓を再建した。
この縁で毎年五月一五日には彰義隊の墓前で東京北部宗務所主催(かつては大乗寺住職が導師)の法要が営まれ、本門寺からも参列焼香する習慣になっている。
彰義隊の一人幕府御賄方佐久間貞一は甥の吉岡育(九歳)を捨子として駒込蓮久寺の新居日薩に預けて水戸に逃れた。
函館に転戦したが後、赦されて東京に帰り合併した大教院の事務につき、大内青巒らとはかって「明教新誌」の前身である「教会新聞」をつくり、明治九年一〇月には秀英舎を興した。
全仏教界のためには常に援助と激励をおしまず、その運営に貢献した。
佐久間に頼られた新居日薩は上野の戦いの砲声を聞きながら蓮久寺で『指要鈔』の講義を平然と行い世情の喧噪のなかでも教学の指導に心を注いでいたのである。
《清水龍山編『新居日薩』、石川存静編『池上本門寺史管見』両山史科七輯、『日舜上人と彰義隊の関係』、『国史大辞典』七巻「彰義隊」の項》