己心本尊
己心本尊
こしんほんぞん
法華経信仰によって己心に本尊を具し、信仰者の心がそのまま本仏であるとする観心主義に立脚した本尊観。
日蓮聖人は教門は観心に即し、観心は教門に即するという立場から法門を論じられた。
教相は釈尊一代の教法において、救済の根本道法(南無妙法蓮華経の五字七字)とそこに開会せられる諸経の位置づけを明らかにし、観心はその教法によって救済される行者の信心(信行)のあり方を論じるものである。
『観心本尊抄』には妙法五字の受持による釈尊の因行果徳の自然譲与を説き、十界互具一念三千の成仏を教示されている。
五字受持は本門本尊を受領する観心の法門である。
礼拝対象である本門本尊は受持者との感応道交において観心本尊となる。
従って観心本尊とは久遠釈尊を受持者の己心に具することである。
聖人はこのような超越の釈尊を受持者の内在に受領する世界を観心本尊とし、これを「己心の釈尊」と表現されたのである。
ところが聖人滅後、観心偏重の教学が進展するなかで、信心の当処に本仏を論ずる己身本尊説が主張されるようになった。
これは本尊に本門本尊と観心本尊を立て、本門本尊は礼拝の対象として客観的に奠定する根本尊敬の本尊、観心本尊は信仰者の主観にある本有尊形の本尊で、この両者止揚のところに本尊の実体があるとする。
本門本尊の実体は法界円仏であり、それは自他円融して自己もまた本仏の表現であるとし、観心本尊は観心証道による仏凡同体であるとするゆえに、教観止揚の本尊とは自己即本仏の境地を意味する。
これは内在的釈尊(己心の釈尊)をさらに対象としての信仰の場に論じられた聖人の釈尊観・本尊観とは異質なものといわねばならない。
受持者の内在としての己心の釈尊はさらに受持者に対し、仏の命を発動する対象的・客体的釈尊であり、内在的釈尊が超越的であるところに釈尊への信仰礼拝があるのである。