宗祖御法難会
宗祖御法難会
しゅうそごほうなんえ
日蓮聖人が法華経を弘通するために受けた迫害を記念して行う法会。
「御難会」ともいう。
伊豆法難会=五月一二日、松葉谷法難会=八月二七日、竜口法難会=九月一二日、小松原法難会=一一月一一日を四大法難会としているが、なかでも竜口法難会は盛んに行われる。
『立正安国論』を幕府に上書し、諸宗の僧俗から憎みをかった日蓮聖人は、文応元年(一二六〇)八月二七日鎌倉名越松葉谷(なごえまつばがやつ)の草庵を夜襲され、危く難をのがれた。
松葉谷法難という。
一時中山の富木氏のところに逃れていた日蓮聖人は、再び鎌倉に帰り布教をはじめたため、社会の安寧秩序を乱すものと、弘長元年(一二六一)五月一二日鎌倉由比ヶ浜から伊豆に配流となった。
伊豆法難である。
文永元年(一二六四)一一月一一日天津城主工藤吉隆の招きに応じてゆく途中、小松原で地頭東条景信らの手勢におそわれ、弟子鏡忍房及び工藤吉隆は殉死、日蓮聖人自身も眉間に傷を負った。
小松原法難である。
文永八年九月一二日平左衛門尉頼綱の下知のもとに捕らえられ竜口刑場におくられた。
「外には遠流と聞えしかども内には頸を切らんと定められぬ」(『下山御消息』定一三三二頁)と、竜口で斬られようとしたとき「江の島のかたより月の如くひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」(『種種御振舞御書』定九六七頁)奇瑞がおこり、依智(厚木)の本間重連の館にお預けとなり、一ヵ月後に佐渡に配流となった。
これを竜口法難という。
このとき一老婆がぼた餅をつくって日蓮聖人に供養したという伝えから、竜口法難会のときにはぼた餅をつくって供え、これを食べると厄除けになるといわれている。
竜口寺では日蓮聖人が斬られようとした時刻の九月一三日午前二時に本堂内の桟敷から小さなぼた餅をまく。
これを食べると厄除けになるとか、漁師は海難除けの守りになるとかいって、あらそってこのぼた餅をひろう。
竜口寺にはこのぼた餅をお供えする「ぼた餅講」があって毎年つとめている。
竜口寺ではこの法難会を「お会式」といい、万灯行列も出てにぎわっている。
また、佐渡に向けて依智を出立した一〇月一〇日は佐渡法難会という。