在滅相対
在滅相対
ざいめつそうたい
仏の在世と滅後の相違を対立せしめる意。
聖人は法華経受容の在世と滅後の相対を検討して、法華経が末法の衆生済度を志向して説かれたもの「末法の始、予が如き者の為なり」(定七一九頁)と領解される。
法華経を説いた霊山の在世八年と滅後、とくに末法の今とは、法華経を説くべく選ばれた「一同に純円」(定七一五頁)の時と機である。
しかし在世は迹門を中心とした理念的法華経であり、滅後は本門に立脚する実践的法華経である。
在世の法華経は、過去に法華経信仰を植えつけられた本已有善の機、上根上機に対して脱益の教となり、滅後は一向謗法の凡夫、本未有善の機に下種せしめ直ちに得脱せしめる教となる。
「一往之を見るに二乗を以て正と為し、菩薩・凡夫を以て傍と為す。
再往之を勘ふれば、凡夫・正・像・末を以て正と為す」(定七一四頁)上根上機を救う教えこそ、よく下根下機を救い、時空を超えていつの時代でも真に導かれ救われる教えと末法為正をとる。
また法華経に二意あり、順次に読むは在世のため、逆次に読むは滅後の衆生のため、順逆の読み方によって対機に異なりがあるとする(定八一三頁)。
逆次とは流通分の心、永遠の現在に無限の未来を持ち、たえず活現しつつ衆生を救済する滅後の法華経である。
聖人の法華経受領は、在滅相対から滅後の現在を志向し、そこから実践や救済の論理が展開する。
《『遺文辞典』歴史篇「在世」・教学篇「滅後」の項》