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光則寺(神奈川県鎌倉市)

こうそくじ #692

光則寺(神奈川県鎌倉市)

こうそくじ

鎌倉市に所在。 行山と号す。
本化別頭仏祖統紀』によれば聖人は『立正安国論』を宿屋左衛門尉光則入道最信(西信とも)の手を経て前執権北条時頼に献進されたが、その後も光則にしばしば書をもって他国侵逼自界叛逆の二難のあることを告げられたが光則は耳を傾けなかった。
文永五年(一二六八)蒙古来牒があり、そののち文永八年九月竜口法難のとき光則は日朗ら六人を預かり囚禁したが、獄中における日朗の行儀に感じ徳容にうたれて帰依の心をいだくようになった。
聖人身延入山後、日朗は鎌倉比企谷にあって同地の化弘通に当ったが光則は日朗に帰投しついに自邸を寺とし光則寺と名づけ、父行の名をとって山号を行山と号したと伝える。
しかるに最信の実名を光則とすることは古記に見えず、光則寺の寺伝によれば、入道最信の子光則が自邸を寺とし、父行の名をもって行山と号し自らの名をもって光則寺と名づけたという。
更に光則寺先住横山仁秀の入手した宿屋系図には行は左衛門尉入道西信(最信)、永仁元年(一二九三)四月六日没、その子光則は二郎左衛門尉、正中二年(一三二五)入道と記している。 この系図に西信を行とするのは寺伝に合し、最信が聖人滅後一三年に没し、光則がこれより三三年後に入道ないし入寂したと記す記録は概ね真を伝えていると思われる。
最信は光則のことであると記した記録の初見は貞享二年(一六八五)に成った『鎌倉志』である。 これを『録内啓蒙』が引用して「鎌倉志五云、光則寺は行時山と号す、大仏へ行道左にあり、此所を宿屋という。 相伝ふ、平ノ時頼の臣宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりと(略)光則信を起し宅地に草庵を結び日朗を開山祖とす。 光則が父の名を行といふ故に父の名を山号とし我名を寺号とす」と記したが、この最信が光則であるとする説を智寂院日省は『本化別頭高祖伝』に述べ、『本化別頭仏祖統紀』『啓蒙』共にこれにより、三書の流布によって最信は光則であると一般に伝えられるようになった。
しかし最信の子光則が光則寺をたて、最信の実名行をもって山号としたという寺伝の方が古く、かつ真を伝えていると思われる。
なお境内の裏山に古の土牢旧跡がある。
《影山堯雄「宗門史上二、三の題について」『棲神』二七号、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日蓮聖人典』(雄山閣)「神奈川」の項

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