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遠忌【法式】

おんき #4986

遠忌【法式】

おんき

遠忌とは、教諸派で、宗祖や中興の祖などの五○年忌以後、五○年ごとに遺徳を追慕する報恩の法会のことをいう。
日蓮聖人の場合、永享三年(一四三一)本圀寺で、一五○遠忌を修し千部会が行われているのが文献上の初例である。
文明一三年(一四八一)の二○○遠忌は、身延山一一世行学院日朝が、初めて西谷の旧地より現今の地に諸堂を移転大整備(文明七年)し、盛大に奉行した。
日朝は興学と育にも心をくだき、文明一〇年(一四七八)日蓮聖人伝記元祖化導記』をじて遠忌を意義あらしめんとした。
享禄四年(一五三一)の二五○遠忌は、京都を中心に盛大に修せられた。
妙顕寺の遠忌法要は、まず音楽平調、「三台急」一返、伽陀そして法華経第一巻読誦。 次に「五常楽」一返、法華経第二、三、四巻。 次に「太平楽急」ニ返、法華経第五、六の巻。 次に「郎君子」、法華経第七、八、巻。 更に「慶徳(鶏徳)」二返、伽陀と、終日法華経が読誦されたと記録されている。
正九年(一五八一)の三○○遠忌、寛永八年(一六三一)の三五○遠忌、和元年(一六八一)の四○○遠忌等は記録がわずかである。
身延山では日脱が四○○遠忌を修し法華十講を奉行している。
享保一六年(一七三一)四五○遠忌には、池上本門寺の大釈迦堂において、九月二八日から一〇月二三〉日にいたるまで、大法要が奉行され、天明元年(一七八一)の五○○遠忌には、知英日明が『遺文録』編纂の大願を志ざした。
保二年(一八三一)の五五○遠忌の頃は江戸末期、文化の爛熟代に当る。
遠忌記念として、身延山出開帳が深川の浄心寺で行われ、江戸中村座では身延山諸堂再建の為の芝居が上演された。
又、身延山では、九月二七日から一〇月一三日まで五五○遠忌万部会が修せられている。
一方、金沢の充洽園では、日輝が「宗祖第五百五十遠忌修行儀」をつくり遠忌法要を修している。
明治一四年(一八八一)の六〇〇遠忌までは各山、各門流で奉行してきたが、昭和六年(一九三一)の六五○遠忌(別項)は宗門として奉行した。

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