妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

遠光寺(山梨県甲府市)

おんこうじ #4982

遠光寺(山梨県甲府市)

おんこうじ

山梨県甲府市に所在。 宝塔山と号す。
江戸代には、甲斐における身延山触頭の一で、末寺一七ヵ寺、触下六九ヵ寺を配下に、朱印地一五石二斗余、境内一九〇六坪を領していた。
初め甲府市小曲町に創設され、次いで同市蓬沢町に、そして三転して現在地に移された。
その草創は、元仁元年(一二二四)九月一九日に没した加賀美次郎遠光のために、一子南部三郎光行が建立した感応遠光禅寺にある。
遠光は甲斐源氏の一族で、鎌倉幕府の草創期に活躍した武将である。 初めは、千光国師栄西を開山に請じたが、国師は老齢を由に、弟子宗明を入山させたという。
また一説には、遠光が六四歳の、建暦元年(一二一一)に自身で開創したともいい、初めは真言宗寺院として建立されたとも伝えられている。
文永年中(一二六四-七五)日蓮聖人身延入山の話を聞き、宗明が身延山に行き帰依、最上院日宗と改名、寺も日蓮宗に改めた。
聖人はこの時、法華経一部の文字をもって七重宝塔大曼荼羅を記し、授与したので、山号も宝塔山と改めたという。 ただし、栄西の弟子宗明と、最上院日宗と改名した宗明とが同一人であるとすると、年齢的にはかなりの隔りがあり一考を要する。
当初の小曲の地は、笛吹・荒川の合流点にあり、地の利が余り良くなく、蓬沢に次いで文年(一五三二-五五)現在地に移転した。
当寺の末寺は、山梨県、八代・巨摩両郡に広がり、そのほとんどが天正年間以前の建立と伝え、古くから末寺組織を形成して、身延山と密接な関係にあったと考えられている。
住職は、先規によって身延山正当会の際導師役を務めてきたが、八世日億の時、逮夜の導師のみと定め、更に甲斐国内の釜無川以東の地の惣導師役、即ち身延山の末頭として、末寺に対する下知役を与えられた。 正一七年(一五八九)身延一七世日新の発行した文書に、「如 前々 河東惣導師 候」とあり、これを裏付けている。
河東の惣導師の文書は、明治初年に至るまで、住職の代替りごとに発行され、現蔵されている。

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