碑文谷檀林
碑文谷檀林
ひもんやだんりん
碑文谷法華寺によって上総国(千葉県)山武市養安寺村の蔵王寺(現在廃寺)に設けられた檀林である。
武州碑文谷法華寺には、各本寺に談所・学室が設けられていたように碑文谷談所があったが、戦国時代の末ごろいつとも知らぬうちに消滅してしまったようで、これは各本寺学室とも同じことがいえるようである。
而してこれら諸本山所属の学徒は江戸初期に成立した飯高、中村、大沼田、小西等の諸談林(檀林)に摂収されたのであるが、受不受論対立の激化に伴い不受派の学徒のための檀林が設置されるようになる。
松崎檀林は常寂日耀(一四四五-一五二二)によって開かれた近世の檀林でも最も古い歴史をもつのであるが、飯高檀林にその存在をうばわれ一時は衰微したが、間もなく不受不施義隆盛によって不受派の学徒の一拠点となり、野呂檀林は寛永七-八年(一六三〇)池上の中妙院日観に、玉造檀林は寛永一四年(一六三七)に長遠院日遵によって造られ、多くの学徒を擁しその勢力大いに上った。
碑文谷法華寺一三世守眼院日晴(-一六六四)は蔵王寺に碑文谷檀林を設けて学徒を育成した。
埴谷長光寺に所蔵する法華寺一三世、同檀林二世勧持院日禅の本尊によれば、この蔵王寺談所を養安寺檀林と呼び、また当時の受・不受に関する文書には、これを上総山田談所といっている。
養安寺檀林は日晴・日禅とつぎ、日禅の時もっとも繁昌したようである。
寛文五年(一六六五)のころは寺領供養、御朱印地受領で日蓮宗諸派諸山は手形を提出するや否やで一宗あげて騒然としているとき、不受派の一方の統領である日禅は養安寺檀林にあって学徒を養育、この年一〇月の末になって江戸表に来たことを安国日講は『破鳥鼠論』にのせている。
日禅は一一月二三日、小湊誕生寺日明等六カ寺と悲田手形を出して御朱印を受けるが、これによって信徒のみならず世人の指弾を受け、元禄一一年(一六九八)一一月、碑文谷法華寺、同末寺谷中感応寺は天台宗に改宗せしめられる。
従って碑文谷檀林(養安寺檀林)は名実共に消滅するのであった。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』》