瑞龍寺(慈賀県近江八幡市)
瑞龍寺(慈賀県近江八幡市)
ずいりゅうじ
慈賀県近江八幡市に所在。豊臣秀次の母(秀吉の姉)瑞龍院妙慧日秀の開山。山号はなく村雲ともいう。伝に寺地を「村雲」といい、後陽成天皇より賜った事に始まる。
古説に「この寺は日秀没後遺命によりその住居を寺となす」とあるが、この説はなはだ疑問で、今一点を挙げてみると、
(一)瑞龍寺に後陽成天皇の宸翰があって、「ひてつく御ふくろ、寺かう申さるるにつきて、すいりう寺になされ候よし申との事にて候、この由つたへられ候へく候かしく、御かつしき御中 申給候」とある。
かつしきとは喝食のこと、僧になる見習中、この場合侍者伴僧を指している。
(二)自ら善正寺へ安置した木像は開山日鋭に開眼を依頼し、「慶長六辛丑二月二十四日、瑞龍寺日秀壽像」と銘記している。
よって日秀が在世中に瑞龍寺は創建し在職したものと考える。
寺領一〇〇〇石、永代法華道場として偉容を洛中に示し、また家光は二条城の客殿二棟を寄進し徳川幕府もまた庇護を加えたという。
今その歴世を挙げると、開山瑞龍院日秀は文禄五年(一五九六)正月戒師本国寺一六世究竟院日禛について得度、寛永二年(一六二五)四月二四日遷化、九二歳、在住三〇年。
二世瑞圓院日怡は寛永二年三月二八日誕生、寛永一八年七月二三日入寺、同二四日戒師本国寺一七世鷲峯院日桓について得度時に一七歳。
寛文四年(一六六四)二月三日遷化、四〇歳、在住二四年。
父は九条太閤幸家。
三世瑞照院日通は承應二年(一六五三)誕生、寛文四年正月晦日入寺御喝食時に一二歳、寛文七年二月九日戒師本国寺一八世乗體院日運について得度、寛文一二年七月一七日遷化。
二〇歳、在住九年。
実父は二条摂政康道であるが九条兼晴の猶子となる。
四世瑞法院日壽は正保四年(一六四七)一二月二二日誕生、寛文一二年八月二九日入寺、時に二六歳、同九月二三日戒師善正寺九世養法院日成について得度、元禄四年(一六九一)四月二九日遷化。
四五歳、在住二〇年。
実父は鷹司教平であるが九条兼晴の猶子となる。
五世瑞現院日顕は四世瑞法院御附弟の約束後、未得度にて元禄三年(一六九〇)七月二日薨去、瑞法院の命により歴代に準ず。
実父は鷹司房輔。
六世瑞應院日慈は元禄一二年一一月一二日誕生、正徳三年(一七一三)二月二一日入寺、時に一五歳、翌正徳四年二月一六日、戒師本圀寺二三世忍稱院日宣について得度、正徳六年四月六日遷化、一八歳。
実父は鷹司兼煕であるが九条摂政輔実の猶子となる。
七世瑞妙院日護は享保二年(一七一七)八月一二日誕生、享保九年四月二一日入寺、時に八歳、享保一二年一一月三日、戒師本圀寺二六世了義院日達について得度、延享三年(一七四六)二月二四日遷化、三〇歳、在住二〇年、実父は二条関白綱平であるが九条輔実の猶子となる。
八世常孝院日照は宝暦三年(一七五三)五月二五日誕生、宝暦一二年四月一三日入寺、即日戒師本圀寺三〇世體智院日誠について得度、安永七年(一七七八)七月二一日遷化、二六歳、実父は有栖川音仁親王であるが九条尚実の猶子となる。
九世瑞正文院日尊は文化四年(一八〇七)一〇月一三日誕生、文化一三年六月二八日入寺一〇歳。
戒師本圀寺三五世龍興院日陵について得度、明治元年(一八六八)一一月一二日遷化、六二歳。
在住五三年、実父は伏見貞敬親王であるが九条輔嗣の猶子となる。
天明の大火による焼失後在位し復興に功績あり中興と称えられている。
一〇世瑞法光院日榮は安政二年(一八五五)二月一七日誕生、文久二年(一八六二)五月一六日御附弟相続入寺、同六月二日時八歳で戒師九世瑞正文院日尊について得度。
大正九年(一九二〇)三月二二日遷化、六六歳、在住五九年。
実父は伏見邦家親王であるが九条尚忠の猶子となる。
一一世瑞珠院日浄は明治二九年一〇月二八日誕生、大正七年一二月八日戒師一〇世瑞法光院日榮について得度、大正九年一一月六日入寺、昭和三七年(一九六二)九月二〇日遷化、六六歳。
実父は仙石政敬であるが九条道実の養子となる。
上記の如く瑞龍寺に住職する者は摂家(せつけ)たる九条家に入籍して後に入寺した。
明治維新後寺は「御由緒寺院」に属している。
勿論、宗門が宗規で定める由緒寺院とは別扱いであったが、現在は日蓮宗由緒寺院である。
瑞龍寺は昭和三六年京都堀川今出川村雲の地を離れて滋賀県近江八幡市に移築した。
門跡の称号は無く瑞龍寺が正しい。
寺の由緒に従い「御殿」または「御所」の別称を使用したが、明治四年太政官布告をもって廃止されたので現在は内々の使用である。
村雲御所も同じである。
《『本化別頭仏祖統紀』、佐野恵作『皇帝と寺院』、『瑞龍寺歴譜』、『善正寺過去帳』、『国史大辞典』八巻「瑞竜寺」の項(二)》