理事成仏
理事成仏
りじじょうぶつ
理の成仏と事の成仏。
理の成仏とは迹門の成仏、事の成仏とは本門の成仏をいう。
迹門は衆生の理性を開顕して成仏の可能性を明らかにした九界具仏界の理具論、本門は久遠実成を説いて教主釈尊の本地を開顕し、成仏の事実を明らかにした仏界具九界の事具論である。
これを遺文にみると『十章鈔』には「一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。何に況や爾前に分たへたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし」(定四八九頁)、『開目抄』には「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱たり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるににたり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕はす。此れ即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)、『観心本尊抄』には「爾前迹門の円教すら尚仏因に非ず」(定七一四頁)と述べられている。
迹門の二乗作仏・一念三千は衆生理具の仏性を説き顕したにすぎず、本門にいたり、本門十界の因果を開顕して初めてその根幹が定まり真実究竟するのである。
従って迹門の成仏を理の成仏と称する。
本門は発迹顕本して爾前・迹門の十界の因果を打破し、真の十界互具・百界千如・一念三千が実現するゆえにこれを事具という。
迹門の性具論に対し本門は能化の実事としての十界互具・一念三千であるためこれを事の成仏と称するのである。