泉南学派
泉南学派
せんなんがくは
天文法難後の永禄一一年(一五六八)、泉南の地堺妙国寺に天台学中心の講会を開いた仏心院日珖、山光院日詮、常光院日諦の学系をいう。
のち京都に根をおろして最大の学派となり、関東系教学に対し洛陽系教学、関西学派ともいう。
天文法難によって堺に逃れた京都諸本寺は、そこでそれぞれの教学を研鑽した。
とりわけ妙国寺に仏心院日珖・山光院日詮・常光院日諦が開いた講会、いわゆる三光無師会は、三大部を中心に広く通仏教学的な立場に立脚して、宗義を理解しようとする学風をかもし出した。
その中心的指導者日珖は、元来、折伏弘通の人であったが、当時、活発な弘教を禁じられたため、その学風は強義を抑えて折伏弘通の用意のためとする摂受的なものであった。
しかし、そこに集った諸門流の学徒をして、興学研究の機運を醸成し、各地に興学の機運を植えつけていった。
事実、この頃から檀林が創設され、下総飯塚=飯高、山城松ケ崎、京都求法院、下総中村、甲斐身延西谷、洛北鷹ケ峰、東山、山城山科檀林等が天正―寛永年間(一五七三-一六四四)に相次いで開設された。
日珖に学んだ一如院日重は、天正一九年(一五九一)京都求法院檀林に招かれ開講し、その弟子心性院日遠は慶長四年(一五九九)、当時、日蓮教団最大の檀林である飯高檀林化主として招かれ、師日重の代りに『法華文句』を講じた。
そして、これら諸檀林における教学は、かかる講会の教学を基盤として、天台学中心の研究を主軸として展開していった。