本法寺(京都府京都市)
本法寺(京都府京都市)
ほんぽうじ
京都市上京区に所在。
叡昌山と号す。
久遠成院日親(なべかむり日親)が開創した寺。
各地を伝道した日親が京都に構えた根拠地で、初めは四条綾小路にあった。
建立の年次については諸説があって明らかにしないが、寛正元年(一四六〇)には確実に存在していたから、『龍華秘書』にいう康正年中(一四五五-五六)の説が妥当と思われる。
本法寺は建立されてから間もなく、寛正元年に幕府によって破壊されたが、しばらくの後に復興されたのであろう。
日親はこの寺を一門の中心と定め、文明一六年(一四八四)八月一三日には自ら仮名書法度を定め、寺内の規律を正した。
更に文明一九年には、ほぼ同様の内容をもつ漢文の法式を定めている。
ところがこの頃になると本法寺に住む僧侶の数も増し、寺域も狭小になったので、新しく敷地を買い求めて寺を移し「永代不朽の宝所」と定めることを発願した。
このため文明一九年七月に日親自ら本法寺縁起を起草し勧進を始めたが、長享二年(一四八八)九月一七日、業なかばで没した。
その後は弟子の日祇が継承し本法寺第二世となる。
本法寺はこの後、京都の日蓮宗と共に繁栄し二十一箇本山の一として重要な役割を果した。
しかし、天文五年(一五三六)の天文法華の乱に敗退し、一時は堺に移ったが間もなくもとの地に還った。
ところで本法寺の創建に際して大檀那となったのは本阿弥家の祖たる本光である。
本阿弥家はこの後ずっと本法寺の外護者となり、江戸時代の初期に書家として有名な光悦が出るに及んで、その一門を始めとする多くの芸術家が信者として名を列ねた。
中でも長谷川等伯は代表的で、当寺にその作品などが什宝として伝わっている。
またこの頃になると京都頂妙寺・堺妙国寺と共に中山法華経寺に属し、三寺の貫首が輪番で本山の貫首を務める、いわゆる三山輪番制度が定まり明治初年まで続いた。
寺宝としては開山日親ちなみのものを始め、近世初頭のすぐれた美術品が数多くある。
《『国史大辞典』一二巻「本法寺(京都)」の項》