日諦(常光院)
日諦(常光院)
にったい
(-一五八五) 常光院と号す。
壮年の頃南都および比叡山で唯識・天台学を学ぶ。
のち斎藤道三の帰依を受けた。
道三の死後は京都に退き、永禄一一年(一五六八)より堺の妙国寺等で、仏心院日珖(一五三〇-九八)・山光院日詮(-一五七九)らと、毎日輪次に講師となって天台三大部の講義を続けた。
会下に舜孝・尊秀・哲境・日千・日諝・日重らの英才が出た。
日諦の門人日厳は講録二五巻にまとめ、これを「文句無師」または「三光無師書」と名づけた。
この三光無師とは、三人の院号に光があることと、特定の講主が決ってないところからこのように称したという。
天文五年(一五三六)の比叡山徒の襲撃により京都の日蓮教団は壊滅(天文法難)したが、この乱を逃れて堺に移った教団は、教団復興を志し、宗学の研鑽に努めた。
その中でこの三光無師会は後の日蓮教団の再興に大きな影響を及ぼし、近世日蓮教団の出発点に位置づけられている。
中世から近世に入って日蓮教団は思想的に大きな変化を遂げているが、その契機がこの無師会の天台教学研鑽を基礎とする宗学形成であった。
会下の一如日重(一五四九-一六二三)は三人の思想をついで教団中興の祖とされている。
天正六年(一五七八)日諦は摂津梶原に庵室を結び、同地の田中寺において論談し、日重はその会下につらなった。
この頃日諦は妙覚寺老僧であったが、妙覚寺住職の実成院日典(一五二八-九二)には悪感情をもち種々悪口雑言したらしい。
そこで日典は「余り悪く云へるによて堺の世尊院文をのぼせて云く、余りさやうに御申しあれば外聞わるし」と忠告したという。
また法門についても日諦は日典を「小新発意のように扱」ったという。
日典にしてみれば「昨日、今日まで上に居、或は肩を並べしものが、さやうになりては人の妬み大かたなるべからず」ということであったようである。
日典が先輩の妙覚寺老僧であった日諦の上に出て妙覚寺貫主となり、天文法難後いまだ復興が十分でなかったものを、辛惨経営の末七堂伽藍悉く建立、仏像・経典・章疏を具備した内容と荘厳さは、京都諸本山の中でも別格のものであったらしい。
従って日諦は日典の名望に対する妬みがあったようである。
日典は妙覚寺を仏性院日奥(一五六五-一六三〇=日蓮宗不受不施派の開祖)に継がせるのである。
天正七年五月、織田信長の命により安土浄厳院で日蓮宗と浄土宗が法論をさせられたが、この法論は、浄土宗に有利なように計画されて日蓮宗の負けと決せられた。
日蓮宗側の僧は法論に負けたこと、今後他宗に一切法論を構えず、かつ日蓮宗の存置を許されて忝けない等の詫び状を信長に提出しなければななかった。
日諦はこの法論に日珖と共に出席し、負け状・詫び状を書かされた一人である。
《『日本仏教人名辞典』「日諦」の項》