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日耀(円是院)

にちよう #2905

日耀(円是院)

にちよう

(-一六五五)
字は住心、円是院と号す。
上州武射郡埴谷村の生れで、木和泉守某の裔と伝えられる。
初め中正院日友の弟子となったが、のち身延山二二世で両山(比企・池上)一六世となった心性院日遠の門人となり、やがて日耀は飯高檀林一二世の化主となった。
日耀の義を筆録して伝えた著述に『法華玄義解』『文句示童記』各一〇巻、『観心自鏡章』などがあり、のちに刊行された。
さて康の側室・養珠夫人は心性院日遠に深く帰依し、大いなる外護の力を発揮していたが、日遠が寛永一九年(一六四二)に寂して後は、日遠の弟子の日耀に帰依し、その財をもって慶安元年(一六四八)に飯高の大堂を再建した。
このようにして化主日耀のもと、飯高は盛んであった。
この一二世飯高化主日耀の頃、飯高に二〇余年を学んだ英才に、同じく心性院日遠の弟子である寿量院日祐がある。
日耀は日祐のことを「爪牙兼美にして虜塵を拂うはただ玄着(日祐の字)のみ」と衆前で語ったと記される(『本化別頭組統紀』)。
この日祐は化主日耀のもとで飯高の玄義主となり、鶏冠井檀林を起した通明院日祥とも相見し道契が深かった。
さて飯高の大堂再建の同年一一月二二日に興栄両山一七世の蓮乘日東が寂して後、日耀は請ぜられて両山一八代となった。
師の日遠が両山一六世として池上に化して六年後である。
日耀のあとをうけて飯高化主となったのが先に述べた日祐である。衆議により一三世飯高化主と決まった日祐は三九歳であった。
その檀林に学び、玄義講主となり、同じ檀林で他山を経ずにそこの化主となった例は日祐一人と記され、日耀が嘱目し永年に亘って教導した日祐であったことがうかがわれる。
日耀は「容貌魁偉、岩電人を射る。胸宇恢廓、甚だ大志あり」(『本化別頭仏祖統紀』)と記され、偉容人を圧していたことが伝えられている。
日耀は明歴元年一〇月一二日に寂した。同年一二月七日、龍華一六世日豊が両山一九世となった。
《宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日耀」の項》

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