妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日秀(玉洞妙院)

にっしゅう #2879

日秀(玉洞妙院)

にっしゅう

(一三八三-一四五〇)
字は観随、玉洞妙院と号す。京都本満寺の開山。関白従一位近衛道嗣の子で母は瀬尾氏である。
日秀の幼少は「姿神彩あって聡明才智なり」と記されている(『本化別頭仏祖統紀』)。
八歳で能く和歌を詠じ、父母に鍾愛されたが、出家の志を抱き、応永二年(一三九五)一三歳で本国寺建立院日伝に師した。
同一六年、近衛良嗣(改忠嗣)の里亭の側に寺を建て、広宣流布山本願満足寺と称したという(『諸本寺志略』・『龍華秘書』)。
また『本化別頭仏祖統紀』の記述によれば、日秀の父の道嗣公がその別荘を割いて一浄室を構え、日秀に法華経を講ぜしめ、後小松天皇は日秀に僧都位を賜い、法華の講場は遂に一寺と成って「広宣流布本願満足」の八字を取り広布山本満寺と呼ぶようになった。
の諺に「玉洞の妙行弘化巨益、舎利弗か富樓那か」といわれ、その弁説は蚕糸を繰るが如く車軸に膏さすに似ていたとある。
宝徳二年五月八日、六八歳をもって示寂した。
その門にやがて一如院日重・寂照院日乾・心性院日遠の宗門中興の三豪が出ている。
さて、この頃、本宗は従来よりの公卿との所縁を頼りにして公武のに進出していた。
妙本寺月明は三条家、立本寺日実が裏辻家など、とくに応仁の大乱(一四六七-七七)後、近衛房嗣が所縁によって法華宗を尊び、その後、前相国政家・花山院政長がその宗に属し、近衛家は本満寺・頂妙寺に深い帰依を傾け、特に本満寺には並々ならぬ信仰を寄せたのである。
日秀が近衛道嗣の子であるとすることは『尊卑分脈』近衛家の所伝に見えぬから疑わしいとも考えられるが、公家武家の名家の子弟がその家譜に名を載せられていない例は少なくないことであり、前述の如く房嗣が所縁によって法華宗を尊んだという所縁とは、日秀が近衛の出身であったということであり、政家及びその子の尚通が本満寺に寄せた帰依の様子(『政家記』『尚通公記』)などから、日秀が近衛道嗣の子であるとの寺誌などの記述は実を伝えていると見て良い。
《『日本仏教人名辞典』「日秀」の項、『史大辞典』一一巻「日秀」の項》

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